星医会 東海大学医学部同窓会
 
 会報(第29号)
 〜平成15年9月1日発行〜


新教授紹介
良薬の開発を目指して

基礎医学系分子生命科学 教授 平山 令明


 私は1991年に、16年余り勤務した協和発酵工業(株)東京研究所を退職して、新設された東海大学開発工学部に生物工学科教授として赴任しました。2002年からは医学部医学研究科との兼任になりましたが、本年4月に開発工学部の任を解かれ、医学部専任になりました。
 この小文では、主に研究の側面から私の自己紹介をしたいと思います。
 協和発酵工業では、当初おもに抗生物質や抗腫瘍性物質の構造解析をX線結晶解析で行っていましたが、本業の傍ら、抗生物質や抗腫瘍性物質がどのように分子レベルで働くかについて研究らしきこともやっていました。企業の研究所では、これを闇実験とも言います。まだ大らかな時代で、闇実験が暗黙に認められ、むしろ奨励されていた節もあります。そうした研究テーマの一つにアミノ配糖体抗生物質の構造活性相関があり、このテーマで私は学位を頂きました。
 1975年に協和発酵工業に入社した時以来、医薬品の標的分子と医薬品の相互作用に基づいた医薬品の作用の理解、さらには医薬品の設計に興味を持っていました。従って、どうしても標的分子の立体構造を解析したいと思っていました。幸い、インペリアル・カレッジ(ロンドン大学)の博士研究員になる機会が1985年に巡ってきたものですから、蛋白質の結晶解析の技術だけではなく、標的分子と医薬品分子の相互作用を考える時間を頂けることになりました。帰国後、元の研究所に戻して頂き、研究チームを作り、本格的に医薬品の開発研究に入ることになりました。
 十分な研究費と研究スタッフを与えられた環境に不自由は感じませんでしたが、企業では研究テーマそして期間について通常ある程度の制約があります。また40歳を過ぎる頃になると、本社からの呼び掛けの回数も増えてきます。企業において、研究に興味を持ってずっとやって来た人間が悩む年代です。そこに「降って沸いた」ように、開発工学部への転職の話が来ました。賢い選択だったかどうかは分かりませんが、「研究を続けられるかも知れない」という誘惑に負け、転職を決意しました。
 当初、開発工学部でも、医薬品開発に関する研究を続けていくことを考えていましたが、諸般の事情から、ごく基礎的な研究しか行うことはできませんでした。在任中の12年間、顆粒球増殖因子のX線解析、顆粒球増殖因子の低分子化、臨床診断用酵素の改良、抗体設計、医薬品分子の特性解析、発がん性分子の特性解析のような研究を行いました。幸いなことに、企業の方を始めとして大学外に友好的な多くの支援者を得ることができ、様々な研究テーマを楽しむことができました。しかし、医薬品分子を設計するという研究にまでは踏み込むことができませんでした。
 私は比較的長いこと医薬品の化学構造を種々の角度から見てきました。その過程で、医薬品分子にはある一定の最大公約数的な性質があると思い始めました。その性質を「医薬品に馴染む性質(医薬品らしさ)」と呼び、10年ほど前にこの考え方を提案しました。例えば、一般的な有機化合物でできた医薬品の分子量はせいぜい700までで、平均的には300数十程度です。また医薬品はある一定の水への溶けやすさを持っています。このような性質を意識しないで医薬品を創製しても、それらは結局医薬品にはなり得ないと、提唱した訳です。私のこの考えは当時は余り受け入れられませんでしたが、実は一方で大手の企業の中では同様の認識が生まれつつあったのでした。つまり、ロボット化をした探索システムを使うことで、一見医薬品になれそうな顔立ちをした化合物がたくさん見出されましたが、それらの大半は結局医薬品にならないことが多かったからです。これらの化合物は、医薬品らしさ欠いていたのでした。4年ほど前からは、「薬らしさ」(druglikeness)という言葉が比較的まじめに医薬品を研究開発する人たちの間で取りざたされるようになりました。
 薬学部がない東海大では、医薬品の研究を行っている教員の数は余り多くないのが現状です。幸い、このような研究を行う最適な場所のひとつである医学部に赴任することができましたので、これまで考えてきたことを総合することで、実際に医薬品の開発につなげる研究を行ってゆきたいと考えています。医薬品の作用や副作用を化学構造の立場から考えることは、当たり前のように思えるのですが、実はあまり系統的に行われていません。当然教科書にも余り載っていません。これらの知識を整理することは、医薬品の開発研究を効率化するためだけではなく、医薬品を上手に活用していく上でも重要なことだと私は信じています。定年までの10年間、医薬品の開発研究だけではなく、医薬品の化学構造と生物活性の相関についての知識を整理し、教育に活用していくことも
私の夢です。
【略歴】 平山 令明(ひらやま のりあき)
1948年 茨城県生まれ
1975年 東京工業大学大学院理学研究科博士課程中退
1975年 協和発酵工業(株)東京研究所研究員
1985年 英国ロンドン大学インペリアル・カレッジ物理学科博士研究員
1986年 協和発酵工業(株)東京研究所主任研究員
1991年 東海大学開発工学部生物工学科教授
2003年 東海大学医学部医学科基礎医学系教授

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免疫不全動物の医学研究への応用

基盤診療学系病理診断学 教授 上山 義人
 
 私の研究は免疫不全マウスの発見や改良の歴史と密接に関係していますので、それに従って、話を進めさせて頂きます。
(1)ヌードマウス
 昭和46年に東京大学医学部を卒業して、2年半ばかり小児科医として勤務しましたが、少し研究をやってみたいという気持ちになり、実験動物中央研究所(実中研)で研究をさせてもらうことにしました。
 ちょうど、ヌードマウスが入ってきた頃だったので、ヌードマウスにヒトの腫瘍を移植することから始めました。いろんな種類のヒト腫瘍をヌードマウスに移植し、現在では約500株を凍結保存しています。
 移植されたヒト腫瘍の病理標本をチェックされていた玉置憲一先生(元東海大学医学部長)が腫瘍細胞間に好中球が存在する腫瘍があることを発見されたのがきっかけとなり、ヒトG-CSF製剤を開発することが出来ました(現在、東大医科研病院長の浅野先生たちとの共同研究)。途中いろんな苦労があり、結局、十年の年月がかかってしまいましたが、このG-CSFは、現在では、学生でも知っている薬剤になっています。
 次に、ヌードマウス移植ヒト腫瘍を用いて、“臨床効果予見性の高い in vivo 抗癌剤スクリーニング系”の開発に取り組みました。ヒトとマウスで抗癌剤の血中濃度を一致させることと、複数のヒト腫瘍株を用いてヒトの臨床での有効率を比較するという方法で、ほぼ満足のいくものを作ることができました。現在、我が国で、新しく化学抗癌剤が開発される際に、この実験系で得られた結果なしに厚生労働省の許可が得られているものはないだろうと思われます。この仕事も、結局、十年の年月がかかりました。現在、東大医科研の中村祐輔先生が、この実験系での結果をティップを用いて解析されており、個々の患者さんの腫瘍に有効な(もしくは無効な)抗癌剤を決めることが出来る可能性が出てきています。
(2)SCIDマウス
 SCIDマウスはT細胞、B細胞を共に欠損しているマウスで、ヌードマウスよりも、さらに異種移植が容易で、特に、(一部ではありますが)ヒトのリンパ球の移植が出来るということで話題になったマウスです。私達はこのマウスに凍結保存したヒトの皮膚や頭髪を移植することにより“ヒト皮膚・頭髪 in vivo 実験系”を確立しました。また、不完全ではありますが、ヒトのリンパ球を移入したSCIDマウスにAIDSウィルスを感染させることにより、AIDSの in vivo 実験系を作ることにも成功しました。これらの研究は神奈川科学技術アカデニー(KAST)で、私がプロジェクト・リーダーになり、1992年から1997年にかけて行った研究です。
(3)NOGマウス
 前述のKASTでの研究期間の最後に開発を始めたマウスがNOGマウスです。このマウスはNODマウスとSCIDマウスとIL-2レセプターγ鎖ノックアウトマウスを掛け合わせた複合マウスで、T細胞、B細胞、NK細胞のみでなく、その他の免疫担当細胞(おそらく樹状細胞と未知の細胞)も機能不全に陥っていると思われます。そのため、ヒト腫瘍のみならず、種々のヒト正常細胞の移植も可能です。
 たとえば、ヒト造血幹細胞をこのマウスに移植すると、T細胞、B細胞、NK細胞、顆粒球、血小板などがマウス体内で分化してきます。前述したAIDSの実験系も、SCIDマウスの替わりに、このマウスを用いると、再現性のある結果が得られるようになり、現在では、AIDS薬剤の効果判定を行えるようになっています(東北大学の小柳先生、医科歯科大の山本直樹先生との共同研究)。同じ方法でATLやEBウィルスの実験系も出来ると思われます。また、ヒト・リンパ球を移植したNOGマウスに抗原を投与するとヒト免疫グロブリンのみが産生されるので、免疫グロブリンを用いた治療薬の開発にも役立つと考えられます。また、ヌードマウスでは一部の特殊な移植ヒト腫瘍にしか見られなかった転移もNOGマウスでは高頻度に見られ、ヒト腫瘍の転移のよい実験系になるのではないかと期待しています。
 このNOGマウスは開発されてから時間が経っていないため、今後の研究により再生医療、感染症、免疫、腫瘍研究などへの応用が広がってくると思われます。
 以上、免疫不全マウスを中心に私の研究の歴史を紹介するとともに、今後の展望についても触れさせて頂きました。
【略歴】 上山 義人(うえやま よしと )
昭和46年3月 東京大学医学部医学科卒業
昭和46年4月〜昭和48年8月 東京大学医学部付属病院、東京警察病院、都立築地産院小児科に勤務。
昭和48年9月〜昭和52年3月(財)実験動物中央研究所研究員
昭和52年4月〜現在に至る 東海大学医学部病理学教室 助手、講師、助教授
(この間、1992年4月〜1997年3月 神奈川科学技術アカデミー第八研究室プロジェクト・リーダー兼任)
平成15年4月 東海大学医学部基盤診療学系病理診断学 教授

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春かぜのごとく
東海大学保健管理センター 次長
伊勢原校舎保健管理室 室長
基盤診療学系 教授  堺 春美
 春かぜは季節のかぜ、微風。夏かぜはエンテロウイルスやアデノウイルス感染症。秋かぜは台風(昔の台風はキテイ台風のように女性の名前がついていました)、冬はインフルエンザ(インフルエンザにもスペインかぜ、ソ連かぜ、アジアかぜ、香港かぜ、江戸時代にはお染かぜ、谷風―相撲取りの名前、この相撲取りがかかったのでこの名がついた)、のように名前があります)、冬にはそれ以外にもライノウイルス、コロナウイルスによるふつうのかぜ。今春アジアからほぼ全世界に向けて吹いたのは、季節のかぜではなくSARS(severe acute respiratory syndrome)コロナウイルス感染による新型肺炎。 日本語では季節のかぜも病気のかぜも「かぜ」。病気の方のかぜは漢字では風邪―風とともにやってくる邪悪なものです。邪悪なものは現在ではウイルスと総称されます。どこからともなく風とともにやってきて、人に感染し、主として気道感染症を起こし、そして、いずこへともなく去っていく・・・
 堺 春美は、1976年6月に東海大学医学部小児科に米国から参りました。既に医学部が開校して3年目、病院が開院して2年目でした。カリキュラムが旧方式であったので、本学第1期生(当時40生と呼んでおりました)から小児科学の授業を担当してきました。以来既に24期生まで、全部の学年に講義をしてきました。当初は先天異常、奇形、遺伝、染色体異常、先天代謝異常、免疫、アレルギー、膠原病と多岐にわたる授業を受け持っておりましたが、不慣れな折から、試行錯誤の繰り返しで、とても教育といえる状態ではなかったかもしれません。私にとりましては、その頃の学生さんの印象が強く残っております。新カリキュラムになってからは、感染症とライフサイクルを担当しておりました。特殊外来はアレルギー外来と予防接種外来を担当してきました。研究はこれも多岐にわたっておりますが、振り返りますれば、感染症とその予防、免疫、アレルギーと一本の筋が通っております。医学部創立10周年記念式典で初代総長の松前重義先生から10周年記念論文賞をいただいたことは大変な名誉と思っております。受賞論文のテーマは川崎病におけるBリンパ球増多と血清免疫グロブリン値上昇に関する研究でした。米国から帰国して、日本には川崎病という奇妙な病気があることを知り、最初の10年間は川崎病の病態の研究に凝っておりましたが、本学小児科初代教授、現名誉教授の木村三生夫先生から、川崎病の病態をいくら研究しても川崎病の病因にはいきつかないのであるから、いい加減にして、予防接種をもっとやったらどうかと言われました。米国では免疫グロブリンの精製、活性や抗体測定法の開発をして居りましたし、本来細胞をいじるより蛋白質をいじる方が性に合っていましたので、以来予防接種に関連した研究にテーマをしぼって現在に至っております。特に熱心に研究したのがインフルエンザワクチン。インフルエンザが上気道粘膜表面の感染症であることから、噴霧型不活化インフルエンザワクチン開発の研究を小児科の教室の先生達と一緒に1982年から継続しております。この研究分野では世界一を誇っております。人体の内面である粘膜面は大所は呼吸気道と消化管ですが、膨大な面積で外界と接しております。ここは又、病原微生物の格好の侵入門戸でもあります。かぜのような気道感染症は、粘膜面を意識せずには理解できません。最近の若い医師を見ておりますと、臓器別の疾患に関する知識は豊富ですが、感染症のようにあるセンスを必要とする分野にはあまり強くないような印象を受けます。感染症は人体全体をイメージし、また、ホストとパラサイト(病原微生物一般)のお互いの力関係を意識しなければ全体像がつかめません。恐らくSARSコロナウイルスに感染しても無症状の人、軽いかぜ症状だけで終わる人、発熱を見る人、そして肺炎になる人、亡くなる人まで各段階があるはずです。先日、デルコンピューターを買いましたら、箱にmade in china と書いてありました。コンピューターにSARSウイルスがついていれば、これがまさしくコンピューターウイルス! 私は日本医師会感染症危機管理対策室会議 専門委員を5年前からつとめておりますが、SARSでは日本医師会会員の先生方も大変に神経質になっておられました。SARSが今冬流行するかどうかはわかりませんが、交通機関の発達、物流の国際化、人の往来の国際化などで、感染症に国境がなくなり、重大な感染症がいついかなる時にわが国に侵入してきてもおかしくありません。私が企画・編集に携わっております「臨床とウイルス」という雑誌があります。7月半ばには第31巻3号を発刊いたします。感染症の分野では一流誌との評価をいただいている雑誌です。図書館には第1号第1巻から全部そろっておりますので、機会がありましたら、最近のところに目を通して下さい。星医会の先生にも是非感染症に強くなっていただくことを期待しております。
【略歴】堺 春美(さかい はるみ)
1958年(昭和33年) 慶応義塾女子高等学校 卒業
1958年(昭和33年) 慶応義塾大学医学部進学課程 入学 
1964年(昭和39年) 慶応義塾大学医学部 卒業
1964年(昭和39年) 聖路加国際病院インターン 開始
1965年(昭和40年) 聖路加国際病院インターン 終了
1965年(昭和40年) 慶応義塾大学大学院医学研究科 入学 小児科学専攻
1969年(昭和44年) 慶応義塾大学大学院医学研究科 卒業
1969年(昭和44年) 慶応義塾大学 助手(医学部小児科学教室)
1971年(昭和46年) 米国テキサス州立医学部病理学教室リサーチ・アソシエート
米国テキサス州立医学部実験病理免疫部ラジオイムノアッセイ研究室室長
1973年(昭和48年) 米国テキサス州立大学医学部内科学教室リサーチ・サイエンテイスト
米国テキサス州立大学医学部内科学教室臨床実験免疫部免疫化学研究室室長
1976年(昭和51年) 東海大学医学部講師 (小児科)
1981年(昭和56年) 東海大学医学部助教授(小児科)
1999年(平成11年) 東海大学病院新生児・未熟児室長         
2000年(平成12年) 東海大学医療技術短期大学教授 学長付
2000年(平成12年) 東海大学医療技術短期大学総合看護研究施設 所長
2000年(平成12年) 東海大学医療技術短期大学図書館 館長
2000年(平成12年) 東海大学医学部非常勤教授
2001年(平成13年) 東海大学医療技術短期大学教授、学長補佐
2002年(平成14年) 東海大学医学部教授 地域環境保健系保健管理学
2002年(平成14年) 学校法人 東海大学保健管理センター次長
2003年(平成15年) 東海大学医学部教授 基盤診療学系
2003年(平成15年) 東海大学伊勢原校舎保健管理室 室長
厚生労働省医薬安全局薬事バイオテクノロジー特別部会 部会長代
医薬品副作用被害救済・研究振興調査機構 治験相談臨時顧問
厚生労働省予防接種後副反応・健康状況調査検討委員会委員
厚生労働省医薬安全局薬事・食品審議会臨時委員
日本医師会感染症危機管理対策室会議専門委員
日本感染症学会評議員・日本臨床ウイルス学会常任幹事・雑誌「臨床とウイルス」編集委員
Japanese Journal of Infectious Diseases Editorial Members

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東海大学での四半世紀

内科学系呼吸器内科 教授 近藤 哲理

 振り返れば、20数年も前にもなりますが、医学部は何とか卒業したものの、特別な就職先も決めていなかったので神奈川に戻ることにしました。東海大学病院を見学して、「素晴らしい病院です」と感想を述べたら、「じゃあ来るか」と就職が内定しました。新設の大学病院では、当直は5〜6日に一回はあった気がしますが、症例報告も研究も縁のない生活で、患者の病状以外に急き立てるものがない気楽な生活でした。「一生ローテイトしていろ」と教授に罵倒されたこともあれば、「訴えてやる!」と患者の家族に凄まれたこともあった気がしますが厭なことはすべて忘れました。忘年会明けに日勤のナースを乗せてオェオェしながら伊豆半島を伊勢原に疾駆したのも今は懐かしい思い出です。研修の合間にも、七夕には裏の竹林に竹盗りに、冬には湯河原の枝なり蜜柑を頂戴にと四季を満喫することもできました。
 楽しい病院勤務は当初決めていた2年後退職計画を挫折させ、気がついてみればキャラクターの濃い1期生や2期生の指導医を言いつけられていました。彼らのキャラがどんなに濃かったかは永遠の秘密としますが、絶対に最近の研修医は薄味だと信じています。入局の選択基準は将来性や指導内容は二の次として、ひたすら居心地の良さを求めました。呼吸器内科に決めたのは、今思えば、類は友を呼ぶの喩え通りだった気がします。助手になって給料が跳ね上がった望外の幸せに有頂天になり、一年間に論文を5本書く目標をたてました。手伝ってもいない論文に名前を入れて貰ったりしてこの年は暮れましたが、達成しようと思えば、高望みの目標も以外と簡単に手に入るものだと関心したものです。
 気楽な臨床生活も長く続けていると飽きてきます。ふと考えると、臨床は奥が深くて勉強に際限がないことに気づきました。慌てて臨床研究への逃避計画をたてて、人工呼吸患者の肺機能を測ったり、CTで肺の容積を測ったりしてみました。研究は高望みさえしなければすぐに論文に繋がるので、手軽に実感が得られる楽しさがあります。臨床研究はそれなりに楽しいものでしたが、インフォームド・コンセントやら面倒な手続きも随分あるので、暫くすると飽きてきました。しかし、誤解というのは恐ろしいもので、研究のための留学話が転がりこんできました。仕事を休んで堂々と外国旅行ができるのだから、2つ返事で承諾をし、愛車を売って航空券を買いましたが、世界のパンナムも今はありません。うまい話は続かないもので、留学して半年もたたないうちに円は250円から150円に下落し、お金のない外国人に米国はとても住みづらいところでした。芝生に寝転がって空を見ると高い空に飛行機がポツンと飛んでゆく。あの飛行機に乗って日本に帰れれば・・・と思った回数は両手両足の指では数え切れませんでした。急ごしらえの研究者づらは本場では通用しないもので、さっぱり業績が出ないのに日ばかり経ってゆきます。苦肉の策として、中国人留学生が放り出して逃げた仕事を貰い、自分の腹筋にせっせと電極を刺して実験をしていました。石の上にも3年と言いたいところですが、留学は2年で終わりました。
 帰国してみれば病棟医は過剰気味で、押し出されるようにして喘息外来に手を染めました。不思議なことですが、当時の東海大学呼吸器内科で喘息診療はとても嫌われていたのです。でも他人がやらないことをやると、あっという間に専門家になれるものです。「専門家」には誰も反論しないので、時間が余ってしまい基礎実験を始めることにしました。喘息に関係あるテーマということで気導平滑筋の神経調節を選びましたが、当時も今も、誰も振り向かない人気のない分野です。人には、この分野ではトップレベルにあると吹聴してきました。人のやらない研究は、絶対に追い越される気遣いがないのです。
 振り返ってみれば、流れ流されてきた東海大学病院での四半世紀だった気がします。唯一の信念は、「嫌なことはやらない、楽しいことは一所懸命やる」だったと思います。
 長かった伊勢原生活に別れを告げ、2003年から大磯病院に移りました。病院での臨床は嫌いではありませんが、若い人たちに混ざって働くには、頭も体も衰えすぎているようです。信念を曲げずに、楽しい診療を続けるためには何をしたらよいかを、今は真剣に考えています。人が嫌がった喘息外来をやったように、人が嫌う睡眠時無呼吸症候群の診療も良いとも思います。患者が眠っている間は医者も眠れるようにすれば睡眠時無呼吸だって楽しく診療ができるでしょう。人生も仕事も楽しくなければいけない。これからも、快楽の追求には貪欲になりたいと思っています。
【略歴】近藤 哲理(こんどう てつり)
1969年(昭和44年)3月、神奈川県立湘南高等学校卒業
1976年(昭和51年)3月、京都大学医学部卒業
1976年(昭和51年)6月、東海大学医学部付属病院内科研修医
1981年(昭和56年)4月、東海大学医学部内科助手
1984年8月−1986年8月、米国ニューヨーク州立大学バッファロー校生理学教室へ留学
1987年(昭和62年)4月、東海大学医学部内科講師
1994年(平成 6 年)4月、東海大学医学部内科助教授
2003年(平成15年)4月、東海大学医学部内科教授、付属大磯病院勤務

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東海医学の発展をめざして

内科学系神経内科 教授 北川 泰久
 
 私が東海大学にお世話になり始めたのは今から11年前の平成4年で、それまでは川崎市立川崎病院に勤務していました。その頃、神経内科の篠原教授から大磯病院の神経内科の責任者として東海に来ないかとお誘いを受け赴任することになりました。以来一貫して大磯病院で診療、教育、研究を行ってきました。東海大学でこれから何をしたいか、教育、研究、診療に対する抱負を述べてみたいと思います。東海大学における教育方針は知識や技術の単なる教えにとどまらず、ヒューマニズムに基づく教育を行い、自らが考える力を養い、各個人個人に内在する特性を開発し、伸ばすことにあります。第一に行いたいことは大磯病院での学生教育と卒後教育をさらに充実させることです。内科で行われている4年生を中心としたクリニカルクラークシップをさらに充実させたいと思います。教育の基本として、いかに教える側が学生に熱意を示すかが重要で、学生との対話時間を大切にしたいと思います。医師と患者の関係はまさに人間関係学で、その基礎を時間をかけてじっくり教えたいと思います。卒後教育についてはもともと大磯病院は総合内科としての機能を十分に備えています。当院は各診療科との間には垣根のない関係ができており、困った時はすぐに相談のできる環境ができており、われわれの内科はまさに総合的に内科を勉強するには打ってつけと考えます。平成16年からは研修医の義務化が行われ、大磯病院も従来にも増して、卒後教育における重要性が増してきます。研修内容をさらに充実させ、優れた臨床医を育てる体制作りに努めます。
 次に研究面です。卒業後、終始一貫して行ってきた研究は脳血管障害、特に脳梗塞の病態生理です。初期の研究はN2O 法とCold Xe吸入法を用いての脳循環代謝面からの脳梗塞の病態解明でした。その後は脳卒中の危険因子についての研究を行っています。脳梗塞の危険因子は従来より高血圧、糖尿病、高脂血症、心疾患に加えて、新しい危険因子として血小板、血液凝固、血管内皮細胞、動脈硬化に関連する様々な因子が知られるようになり、さらに遺伝子多型も発見され多様化しています。その中で膠原病、血管炎を基礎疾患とする脳梗塞について興味をもち、現在は抗リン脂質抗体症候群と脳梗塞との関連について研究を行っています。抗リン脂質抗体症候群の血栓症発症のメカニズムを研究する中で、凝固異常と動脈硬化と脳梗塞に関するいくつかの知見が得られました。今後、予防医学の立場から脳卒中を未然に防ぐために、さまざまなリスクファクターを考慮にいれたテーラーメイド治療ができるようにしたいと考えています。そして新たな危険因子の発見にも努めたいと思います。
 神経内科の分野で common diseaseとして重要なものに脳卒中のほか、頭痛、てんかん、痴呆、パーキンソン病などがあります。このうち頭痛には以前より興味を持ち、特に緊張性頭痛のメカニズムについて研究してきました。今後片頭痛、緊張型頭痛を中心にその病態の解明、治療法の確立をめざした研究を行いたいと考えます。大学における研究は常に最先端でなければいけません。最先端医療としての再生医療、遺伝子治療へのアプローチにも力を入れたいと思います。さらに急性期治療としてストロークセンターを含めた脳・神経疾患の救急医療の体制づくりと新しい治療法の確立が急務であります。超急性期の脳梗塞の治療について、世界に発信できるようなデータを東海大学から多くだせるように努力したいと思います。
 次に診療面です。大磯病院は新体制となり大きく変化しようとしています、今まで以上に地域に密接した中核機能病院として、新たな高度医療ができるように、ハード、ソフト面で改革していきたいと考えています。大磯、二宮地区は高齢者が多く、神経内科は脳卒中、痴呆、パーキンソン病を扱う関係で特に重要な診療科です。地域の先生方との病診連携には特に力を入れて、協調性、柔軟性のある態度で診療に臨み、いままで以上に信頼される連携体制づくりに取り組みたいと思います。大磯病院は脳神経外科、神経内科、整形外科、リハビリテーション科と神経系を扱う科が充実しており、日本神経学会の教育指定病院にもなっております。脳・神経センターとしてさらに充実を図ることも計画しています。私の好きな生き方として“上善水の如し”という言葉があります。水は低きに流れ、謙虚で柔軟性があるが、ひとたび力を合わせればと洪水のごとく怒濤の力がでます。このような気持ちでこれから努力していく所存です。大学は講座制は廃止されましたが、研究は皆で力を合わせて行わなければなりません。皆が身も心も一致できるような環境が必要です。先輩を敬い、後輩を育て、いつも皆が一致、協力できるレールの上で、輝ける東海医学の一環を担えるような神経内科学をめざして努力する所存です。今度とも星医会の先生方のご指導、ご鞭撻よろしくお願い申し上げます。
【略歴】北川 泰久(きたがわ やすひさ)
昭和49年3月 慶応義塾大学医学部卒業
昭和53年4月 慶応義塾大学内科学助手
昭和57年3月 医学博士
昭和58年2月 米国ベーラー医科大学神経内科留学
平成 3 年4 月 川崎市立川崎病院神経内科部長
平成 4 年7 月 東海大学医学部神経内科講師
        同 付属大磯病院神経内科医長
平成 8 年4 月 東海大学医学部神経内科助教授
平成 9 年4 月 東海大学付属大磯病院副院長
平成15年3月 東海大学医学部内科学系(神経内科)教授

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教授に昇格して

外科学系消化器外科 教授 中崎 久雄
 
 いささかの感慨がある教授昇格であります。今年度、北川教授と近藤教授が新任の教授となられ、篠塚教授と私を含めて4名の教授が大磯病院に誕生いたしました。大磯病院にとり画期的なことでした。私にとって残された時間は約5年です。平成15年に大磯病院の院長の辞令を頂きました。この機会は大磯病院にとって大きな一大転機であろうと思えます。
 大磯病院20年の歴史的変遷を省み、今後の東海大学付属大磯病院がいかにあるべきかの課題を全教職員と考え目的を明確にし実行に移すべき時期と捉えています。医学部の構造的一大改革がほぼ全国に先駆けて断行されました。医局制度の廃止が投げかけた多くの未解決の問題があります。組織改革に伴い医局制度が廃止され、全教員の身分が横並びとなり、出向人事権も事務方を含めた人事委員会によって決定される事になりました。また各教員の意志が取り入れられ、最終決定されることとなったのです。
 さらに各付属病院長に昇格人事の申請の権限が付与されました。しかしこれらの組織改革成功の可能性は、人々の心の中では半信半疑であります。どこまでやれるのか。しかしどこかがやらねばならない。実行せねばなりません。
 この様な状況の中で、大磯病院がその最も可能性のある状況と推察されます。病院長および教授として私にやれることと、認識しています。全力を尽くしてこの改革に協力していこうと考えています。4人の教授の先生方と協力して最善の方向に進まねばなりません。
 医学教育の場は病院内にその多くが存在しています。良き医師を育成するためには総合的な教育の再認識が必要であります。現在の細分化され過ぎた各診療科の学問体型をどのように診療の場で再構築していくのかは大きな命題であります。
 大磯病院からの新しい医学教育の息吹を、医学部全体に感じていただけるような、そのような付属病院にしたいと思っています。大磯病院に既に存在している総合内科的雰囲気を一層押し進め、さらなる総合診療科構想を皆で立ち上げ、育て、押し進め、医学教育の現場を創って行きたいと思っています。 
 それには今大磯病院内の意識改革を進めていかねばなりません。今までの既得権や縄張りを捨てて、どのような事が大学に対してできるかを各自が自分に問いかけねばなりません。
 このことは簡単にいえても実際には私たちには初めての経験であり、難しい問題であります。教授に昇格し、病院長を拝命して、この事を考えています。
【略歴】中崎 久雄(なかざき ひさお)
昭和43年3月 神戸大学医学部卒業 
昭和43年4月 神戸大学医学部でインターン 
昭和45年3月 国立がんセンター病院外科レジデント
昭和48年4月 東京大学医科学研究所癌生物学研究部研修生
国立がんセンター研究所生化学部研究生
平成元年4月 東海大学医学部外科学2助教授
平成元年9月 Washington大学医学部及びBiomembrane研究所に留学(6ヶ月)
平成15年4月 東海大学医学部教授
       東海大学医学部付属大磯病院病院長
       現在に至る

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肝胆膵外科の新たなる活動に向けて

外科学系消化器外科学 教授 今泉 俊秀
 
 この度、平成15年4月1日付けで外科学系消化器外科学教授を拝命いたしました。
 また、星医会の特別会員に加えさせていただきありがとうございました。大変光栄に存じておりますと共に、責任の重さを痛感いたしております。5月から着任しましたが、未だ教育・診療に慣れず緊張の続く毎日で、多くの方々にご迷惑をかけております。外科医としてこの1ヶ月半の間に14例の手術をさせて頂きましたが、うち9例が膵頭十二指腸切除術などの膵切除術で、前任地と同様の手術を無事行うことが出来ました。これも幕内教授をはじめ、肝胆膵外科グループやレジデントの先生方、手術室・病棟看護師の方々のお陰と感謝しております。まだまだアイドリングの最中ですが、徐々にペースアップしてゆきたいと思います。
 さて、私は昭和46年の入局以来、32年間東京女子医科大学消化器病センター外科で働いてきましたが、関連施設への出張・留学や依頼手術以外に他の医療機関で働くのは全く初めてです。日常診療の診方、方法や手順、器材機器などのシステムを始め、手術法などが いままでとはかなり異なるのは当然で、種々戸惑うことも少なくありません。しかし大学病院の基本的な使命は全く同様で、卒前卒後の臨床教育・研修のみならず、良質な臨床・研究をおこなうべき指導者の責任が重大であることも痛感しております。
 1970年頃の大学紛争を経験し「患者様への真の医療」を実践する実力を身につけるべく、中山恒明先生の創設された卒後臨床教育システムである「医療練士研修制度」のもとで医師としてのスタートを切ったわけです。幸いにも良き指導者、先輩に恵まれ、充実した臨床経験や研究業績を得ることができました。とりわけ中山恒明先生や小生の直接の師匠である羽生富士夫先生からは、臨床医としての外科医のあり方、大学人としての指導者のあり方、外科手術の「アートとサイエンス」を徹底的に叩き込まれました。これらを武器に留学したドイツ・ウルム大学のH.G.Beger教授の下では、ドイツ外科学の真髄の教えを受け、手術など臨床ではほぼ対等に議論できましたが、そのevidenceや基礎的事項となると全く歯がたたず、「世界は広し」と歴史・文化の違いを痛感させられました。個人的には家族共々ヨーロッパの豊かな自然と文化を満喫しましたが、今でもドナウ川沿いの古い町並みが目に浮かび、教会の鐘の音が聞こえてきます。
 小生は、消化器外科学の中では特に膵胆道外科を専門としてきした。昨年10月までの個人手術経験約3200例中、850例が膵手術で、500例が膵頭十二指腸切除術(膵全摘術・十二指腸温存膵頭切除術を含む)でありました。大変貴重な経験をさせて頂いたと感謝しております。一方では、膵胆道癌の診断・治療は未だに惨憺たるものであります。早期発見が未だ困難で大多数が進行癌である膵胆道癌に対して種々の拡大手術に挑戦してきましたが満足すべき結果ではなく、外科医の果たせる役割とは何か・・とジレンマに陥る事の多い毎日であります。厚生労働省の班会議で、新たな研究プロジェクトが開始したばかりで、今後、可能な限り参加してゆきたいと思っております。
 今回、幕内教授から、肝胆膵外科を指導するよう直接ご下命を頂き、少数精鋭の若い資質豊かな仲間と共に勉強できることを大変嬉しく思います。小生の役割は、今までの東京女子医科大学消化器外科での貴重な経験を伝承し、医療の原点である「人の痛みを自らの痛みとする」事を忘れずに、臨床経験と研究業績に優れた外科医を育成することであります。更には、実力ある専門家集団を構築して世界的な指導的施設になれるように、幕内教授を補佐して東海大学と外科学教室の発展に外科医人生を燃焼し尽くす決意でおります。
 現在、肝胆膵外科の研究活動の出発点を構築するべく、今までのグループ各個人・教室全体の臨床成績と研究業績の見直しを行っております。今後の活動は、これらを十分に解析して限られた時間で継続的・科学的・activeに、自由闊達に楽しく活動してゆきたいと思います。まずは「温故知新」の精神で始めたいと考えておりますが、自ら汗をかき、「井の中の蛙」となることのないよう「日々精進」してゆきたいと思いますので、星医会の皆様には、宜しくご指導ご鞭撻をお願い申し上げます。
【略歴】今泉 俊秀(いまいずみ としひで)
1970年5月 札幌医科大学医学部・卒業
1971年4月 東京女子医科大学消化器外科学教室・入局(医療練士研修生)
1977年4月 東京女子医科大学消化器外科学教室・助手
1987年2月 東京女子医科大学消化器外科学教室・講師
1987年5月 東京女子医科大学消化器外科学教室・膵外科班長
1990年5月 東京女子医科大学消化器外科学教室・助教授
1991年5月 ドイツ・ウルム大学医学部一般外科学教室・留学(Gastprofessor)
  〜1992年6月
2003年4月 東海大学医学部外科学系消化器外科学・教授

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リエゾンは臨床各科との連携

専門診療学系精神科学 教授 保坂 隆

 平成15年4月1日付けで東海大学医学部精神科学の教授を拝命いたしました。私は1978年に卒後2年目の研修医として東海大学医学部付属病院に採用していただきました。当時はまだ一部の病棟は開いておらず,病室を居室に使わせていただいた時期でした。
 そんな中で,私は精神科に籍を置きながら,今で言うスーパーローテーションを自ら計画し神経内科・循環器内科・産婦人科・麻酔科などをローテーションさせていただきました。当時,「ローテイター症候群」という病気に罹っていた私たちのすれ違いざまの挨拶は「今,どこの科にいるの?」とか「いつまでなの?」とかであり,いつも別れを前提にした出会いの毎日でした。アイデンティティーの定まらない不安は,ドリーム(この店がまだあるのを知って感動した!)でボリューム一杯の夕食を摂ることで否認していました。当時はレストランも少なく,病院を離れても,安住の地のないローテイターとは伊勢原のどこででも会ったものです。
 しかし20数年が経つと,伊勢原も典型的な地方都市に昇格し,東洋一と言われた病院もその役目を終える時期が近づいてきてしまいました。青春時代を過ごし,研修や勉強をさせていただいた私にとって,病院がリニューアルされる時期に教授に就任できたことは感慨深いものがあります。精神医学と身体医学のどちらにも身の置き場を見つけられなかった私も,最終的にはどこの身体科とも等距離を保ちながら,診療や研究面でも協調していける「リエゾン精神医学」というポジショニングをとることで安定してきました。これからの新病院では,日本で初めての「リエゾン精神医学が充実した医学部付属病院」を目指します。いくつかの計画をお話しします。
1. 外来機能の充実
 従来の一般・児童外来に加えて,リエゾン外来(仮称)などの新設により医療者や患者さんにとってavailabilityの高い外来を目指します。一般科に罹っていたり身体疾患をもった患者さんの精神症状がターゲットになります。
2. ER精神医学の充実
 救命救急センターにおけるリエゾン精神医学を「ER精神医学」と名付け,ほぼ常勤体制のER精神科医を待機させ迅速な対応をしていきます。
3. 緩和医療・サイコオンコロジーの導入
 オンコロジーセンターと連携したり,がんを扱う臨床各科と定期的な緩和ケア・カンファレンスを開催するなど,がん患者さんの心理面への援助に協力していきます。
4. メディカル・サイカイアトリーへの移行
 今後の精神科病棟は,精神疾患と身体疾患を併せ持つ,いわば合併症患者さんを受け入れていきます。このような新しい動きはMedical Psychiatryと呼ばれています。
5. 在院日数短縮化への貢献
 身体疾患患者さんの30〜40%にはうつ病やせん妄が合併していますが,このような場合には在院日数が延長することがわかっています。今後は,このような患者さんを早期に発見し治療するようなリエゾン機能の充実を図り,病院全体の在院日数短縮化にわずかでも貢献していくのが目標です。
【略歴】保坂 隆(ほさか たかし)
1977年3月 慶應義塾大学医学部卒業
1977年5月 慶應義塾大学病院精神科研修医
1978年5月 東海大学病院研修医
1982年4月 東海大学医学部精神科助手
1990年8月-1992年2月 UCLA 精神科留学
1993年4月 東海大学医学部精神科講師
2000年4月 同助教授
2003年4月 同教授
日本総合病院精神医学会(理事),日本サイコオンコロジー学会(理事),日本心身医学会(理事),
米国心身医学アカデミー(評議員),日本緩和医療学会(評議員)


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