星医会 東海大学医学部同窓会
 
 会報(第33号)
 〜平成17年9月1日発行〜


卒業生の学内教授 今年も誕生

すべきこと、できること、したいこと
内科学系呼吸器内科学 教授 桑平 一郎(1期生)

 この度、呼吸器内科学教授に昇格させて頂きました。第一期生として入学後、大変にお世話になりました先生方、医師や研究者としての先輩の先生方、同期の仲間、後輩、職場の同僚、病院の職員の皆様、友人たちに心からお礼を申し上げたいと存じます。星医会会報への原稿のご依頼を頂戴致しましたので、普段私の考えていることを申し述べたいと思います。卒後、ドイツのマックスプランク研究所にリサーチフェローとして2年間留学させて頂きました。 ゲッチンゲンという田舎町ですが、到着翌朝にヨハネス・ピーパー教授室に呼ばれ研究テーマを頂戴しました。その際ピーパー教授から、このテーマで、「君が何をすべきか(should)、何ができるか(could)、そして何をしたいか(would)を良く考えて、研究計画を立案しなさい」と言われました。2年間の研究生活の間、常にこの3つのキーワードを念頭におき過ごしましたが、この言葉は、決して研究のみに限定されるものではなく、日常生活や一般社会生活にも通じる極めて重要な言葉であると感じました。自分を含め、人は不測の事態に直面する場合がございます。私は、決して運命論者でもなく占いを信じる訳でもありませんが、その人が現在置かれた立場には、その人の歴史や背景が色々な形で作用していると感じます。個々の人間が置かれた環境は異なり、それぞれが違う家庭、違う組織、そして異なる社会に暮らす訳です。しかし、局所と全体は常に相似の関係にあるような気が致しております。フラクタル幾何学という聴きなれない言葉を引用させて頂きますが、これは局所の図形を繰り返し描いた結果出来上がる全体の図形が、局所と全く同じ形をしているというものです。何が言いたいかを申し上げます。例え100年生きたとしても、その間に接する人の数、見えるもの聞こえるものには限りがあります。そして、人は自分自身で確かめられることしか信じないかもしれません。しかし、常に自分が置かれた立場において、冷静に「自分が現在すべきこと、できること、したいことは何か」を問いながら、さらに10年先を見据えて「自分が何をすべきか、できるか、したいか」を考えると、その結果出てくる答えは、自分の身の回りの局所に留まらず人の社会全体につながるものではないかということです。そのような構図の中に私達は生かされているのではないでしょうか。もしかすると、近い将来得られる結果はさらに予想外のものになるかもしれません。しかし、それはさらに繰り返していくと結局は正しい姿になるのかもしれません。そう考えると、何事も修行で、あまり日々ストレスを感じることなく、真摯に前向きに物事に取り組めるのではないでしょうか。
 紙面の都合でこれ以上は割愛させて頂きますが、今後これまで以上に後進の指導にあたる機会が増えるにあたり、常にこの3つのキーワードを念頭に、東海大学のため、専門である呼吸器病学、呼吸生理学のため、日々努力したいと考えております。皆様、今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。
【略 歴】桑平 一郎(くわひら いちろう)
東海大学医学部内科学系呼吸器内科学 教授, 東海大学医学部付属東京病院 病院長
昭和48年 東京都立西高等学校卒業,
昭和55年 東海大学医学部卒業,
昭和59年 東海大学大学院医学研究科修了(医博),
昭和61年 東海大学医学部呼吸器内科学助手
昭和63年 ドイツ マックスプランク実験医学研究所(ゲッチンゲン)フェロー
平成2年 米国カンサス大学メディカルセンター(呼吸生理学)訪問研究員
平成5年 東海大学医学部呼吸器内科学講師
平成9年 同 助教授
平成14年 東海大学医学部付属東京病院 副院長
平成16年 同 病院長
平成17年 東海大学内科学系呼吸器内科学教授



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教授に就任して
専門診療学系眼科学 教授 河合 憲司(2期生)

プロローグ
 2004年10月27日、米国眼科学会出張に出ていた私は、成田空港に2時頃着いた。車を走らせ講堂Aに到着したのは5時頃であった。すでに拡大教授会は始まっていた。席はほぼ満席で私はかろうじて空いていた一番後ろの席を陣取った。堀田医学部長が淡々と議事を済ませていた。偶然にも横には同級生の神経内科の瀧澤助教授がいた。私は小声で瀧澤助教授に聞いた。「教授選の結果発表は?」私は高鳴る胸のうちをさらけ出さないように冷静に振舞った。
3年前
 2002年2月私は約11年務めた大垣市民病院眼科医長を辞し (公務員歴19年11ヶ月)、その3月に眼科助教授として赴任した。当時、黒川医学部長の司会の下講堂Aで次のように挨拶をした。「今度、眼科部門長、助教授として赴任してまいりました河合憲司です。卒後21年岐阜に居りましたが縁あって母校に戻ってきました。今後ともよろしくお願いします。」あれから3年が過ぎようとしていた。
 堀田医学部長から次の報告事項に話が進んだ。何も頭に入らないのだ。目をつぶると、古い記憶が頭の中で渦巻いた。医師を目指し工学部から医学部に再入学したのは、今から30年ほど前の1975年4月であった。6年間の医学生生活を無難にすごし、1981年3月卒業と同時にふるさとの岐阜に戻り、岐阜大学医学部眼科にお世話になった。その後岐阜大学関連病院の大垣市民病院に赴任し岐阜で約21年過ごしていた。何もかも順調であった。私も50歳を迎えそろそろ開業するものと思い、両親にも家族にも開業する話をしていた矢先、晴天の霹靂というか、一本の電話によって人生の岐路に立たされたのだった。「君、東海大学に戻って教員やる気ない?」「教授選に出ろということですか?」
岐阜での21年
 私が岐阜大学に入局したころ、早野三郎先生は世界に先駆け人工角膜や岐阜レンズという虹彩支持眼内レンズを開発されていた。その後岐阜大学学長になられたため後任に東京大学から北澤克明先生が赴任された。北澤先生は眼科レーザー治療の先駆者であり、抗がん剤を使用した緑内障手術の開発者でもあった。抗緑内障薬の開発にも多く貢献されたが、特記すべきは、日本人の緑内障疫学調査を本格的に行い、正常眼圧緑内障が如何に多いかを発見された。
 二人の偉大な恩師は私に多くの知恵を授けてくれた。しかし、灯台下暗し。あの頃は、恩師の偉大さがあまりよく分かっていなかった。
 堀田医学部長の声が急に聞こえた。専門診療学系眼科教授に河合憲司助教授を認めて頂けますかというアナウンスメントが流れた。
教授は大変!
 大学とは教育、研究、臨床の3本柱で成り立っている。私は、若い医師に研究の夢を与え、臨床の楽しさを目覚めさせ、教育の重要性を教えなければ成らない立場に身を置く事となった。教室運営は助教授時代と違い教授は他人事ではないと自覚した「まさに背水の陣である」。外来、病棟、手術室と目が回る臨床の忙しさの後、疲れきった体に鞭を打ち、研究費をかき集めるためのアイデアを練り、若手の医師に全国学会、国際学会に発表させ、その後に論文を書くよう尻を叩き、患者様のクレームを聞く毎日が其処にあった。また、学術講演、原稿依頼、座長などの仕事も増え、各種学会の理事選挙に出馬し、しかも大学では会議を主催したり出席したりと、てんてこ舞いである。もちろん学生の教育、大学院生の教育、研修医の教育はたまた臨床助手の教育と「教授は何故こんなに多忙なのか」。
幸せな日々は何時
 健康が一番というのがよく分かってきた。そこで、アパートから大学まで天気のいい日は歩くことにした。大学病院が聳え立つ丘を登りかけると、私の足元は小刻みに震えるのである。9階の部屋に入る頃には背中は汗びっしょり。疲れが残ったまま朝7時30分からの病棟回診、接客、学会の準備等々。
54歳になってからの挑戦は何時まで続くのか?
【略歴】河合 憲司(かわい けんじ)
1981年3月 東海大学医学部医学科卒業,
1987年 12月 岐阜大学医学部眼科講師,
1989年9月 医学博士(岐阜大学),
1990年6月 米国ノースキャロライナ州DUKE大学,
1991年4月 大垣市民病院眼科医長, 
2000年4月 岐阜大学医学部客員臨床系医学助教授,
2002年3月 東海大学医学部感覚学系眼科学助教授,
2005年4月 東海大学医学部 専門診療学系眼科学 教授



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創設者らの理念を継承するために
外科学系脳神経外科学 教授 松前 光紀(3期生)

 1974年4月東海大学医学部が開設され、翌年2月伊勢原市望星台の地に東海大学医学部付属病院が開院した。そして、初代医学部長佐々木正五先生と初代病院長笹本浩両先生に率いられた医師・コメディカル・学生の集団は、一団となり東海大学理事長が掲げた医学部設立の目的を達成するためその活動を始めた。この集団が取り組んだ新たな取り組みは、従来の医局や診療科の枠を超えた診療や授業の取り組み、低学年からの積極的な病棟実習、大学既卒者への入学許可などである。これらの制度は現在言葉を変え、「医局制度の改組」「クリニカルクラークシップ」「学士入学」となり継承されている。若い卒業生たちは、医学部創設当時から今脚光を浴びている制度が実践されていたことに驚くかもしれない。しかし当時は教員も少なく、またどこの医学部でも実践していなかった制度なので、患者や学生で具体的成果を得るために必死で、おそらく外に向かってアピールするだけの余裕が無かったのではないかと推察する。
 特に一期生として入学した学士入学の方々は、学年の中で中心的な役割を果たすとともに、人生経験が豊富でユニークな人が多く(失礼ながら)、その影響力は同じ時期に在籍した下級生にも及んだ。あるとき東海大学での授業を欠席し、聖マリアンナ医科大学で薬理学の講義をされていた薬学部出身の先輩もおられ、我々下級生にとって一期生は神様のような存在であった。その一期生が医師国家試験を受験するため新宿へ出発する前に、第一食堂で激励会が開かれた。その場に集まったのは、教員は当然であるが、コメディカルに加えガードマンなども参集していたことが私の記憶に残っており、いかに多くの期待と尊敬を集めていたかうかがえる。この学士入学をされた方々を中心とした一期生の見事なまとまりは、その後下の学年に継承され東海大学医学部の基礎を作ったといえよう。
 一方、病棟実習は自然と学生が、患者の中に溶け込まされる雰囲気であった。特に教員と研修医が少なかったので、救急外来での実習などでは自然と学生が血圧を測り、バックを押しながら患者を手術室に運び、血圧が上がるまで輸血をパンピングしたり、その場の雰囲気から自分でできることは何か、オンザジョブトレーニングが毎日繰り返された。その時体得した患者の変化と治療に対する反応は、教科書や講義で教えられるよりはるかに速く自分の物となった。一方病棟を離れると、教育手法はある程度各科に任されており、ドイツ語で問題を出される辛い泌尿器科の口頭試問もあれば、形成外科ではビールを飲みながらのクルズスなど、ユニークで画一的でない余裕のあるカリキュラムが実践された。
 診療科の枠を超えた連携は、当たり前の如く臨床や講義の場で我々が接した。内科系・外科系の教員が合同で行う臨床講義や、困った症例に出くわすと気軽に他の診療科の医師を呼んできてアドバイスを受ける様子など、我々東海大学では普通の事が他の大学では異質な光景であることを卒業してから学んだ。
 さてここで私が言わんとしていることは、「一期生はすごかった」「昔は良かった」ではない。医学部とその付属病院はヒトを相手として、人を教育し、ヒトの悩みを解消する場所である。佐々木・笹本両先生が考案しみんなで実践してきたことは、その対象が同じである限り言葉は変わっても普遍であり、最近になりようやく他の大学が追随しまたマスコミが注目するところとなった。
 私はこの4月学内外の推薦を受け昇格した、この普遍の理念を継承するため努力する。
【略歴】松前 光紀(まつまえ みつのり)
1982年3月 東海大学医学部卒業,
1984年4月 東海大学大学院医学研究科外科系専攻脳神経外科学分野博士課程入学,
1988年3月 同 修了, 医学博士,  
1982年6月 国立病院医療センター臨床研修医,
1984年3月 同 退職,  
1988年4月 東海大学医学部脳神経外科学助手,
1990年9月 Harvard University Research fellow, Children’s Hospital Research fellow,
1992年4月 東海大学医学部脳神経外科学講師,
1999年4月 東海大学医学部外科学系脳神経外科学助教授,
2003年4月 東海大学医学部付属病院 脳神経外科診療科長,
2005年4月 東海大学医学部外科学系脳神経外科学教授




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