星医会 東海大学医学部同窓会
 
 会報(第34号)
 〜平成18年3月1日発行〜


◆訃報◆
沖野 遥先生を偲んで
内科学系呼吸器内科学 教授
東海大学医学部付属東京病院 病院長 桑平 一郎(1期生)

 2005年10月19日、沖野 遙先生が旅立たれました。私は一期生として学生時代は勿論ですが、呼吸循環生理学教室で4年間基礎研究のご指導を賜り、大変お世話になりましたため、ここに思い出を書かせて頂きます。
 沖野先生は、初代病院長である故笹本 浩先生や初代医学部長である佐々木正五先生をはじめとする東海大学医学部開設時の主要メンバーのお一人でおられます。医学部ならびに病院の建設に多大なるご貢献をなされました。また、東海大学医学部呼吸循環生理学教室の初代教授として、その基礎を築かれました。沖野先生と私の最初の出会いは、医学部3年生の時の循環生理学の講義であったと思います。まず驚きましたことは、講義で使用されるオーバーヘッドプロジェクターのスライドが全部英語であったことです。さらに驚いたことに、定期試験の設問もすべて英語でありました。さすがに答えは日本語も可でしたが、先生は学生に向かって英語で書けばもっと良いと言われました。ともかく驚きましたが、講義で英語から入りますと生理学がPhysiologyとなり、次第に洋書のテキストも親しみやすく、ちょっと読んでみようかなという気持ちになりました。さらに、このことは将来英文ペーパーを書く際にも役立つことが後になって分かりました。大学院時代、「論文は英語で書かなくては意味がない」と言われ、お酒を飲んだ際には酔っ払った勢いで、店の前で「日本語の論文は誰も読まない。なんで日本語の論文を書くのか、オマエの論文は非常におつる!」と怒られ、瞬時にして酔いが醒めたのを良く覚えております。このように、沖野先生は非常に厳しいと敬遠される面もありましたが、真の姿は本当に優しく、とても教育熱心で、若者が大好きで、研究に関して情熱の塊でありました。1例をご紹介致します。毎年夏に、全国の循環生理学、循環器内科学の若手医師や研究者を一堂に集め、Sea Side Study SessionやRiver Side Study Sessionと称する勉強会を開催しておられました。通称「沖野スクール」と呼ばれます。ここを巣立ってそれぞれの領域で教授になられた方も多数おられ、中澤博江先生もそのお一人であると思います。研究会の演題発表では演者が答えに窮する厳しい質問を繰り返す一方、夜の懇親会では腹のそこから大笑いし若手研究者と夜遅くまで語り合っておられました。情熱的に研究の素晴らしさを説くことで、沖野ファンはどんどん増えました。厳しいですが大変にお優しい、本当に頼りになる大親分でした。血流計測の分野では世界の権威でおられ、沖野先生が開発されたカテーテル先端型電磁血流計は広く医学に応用されております。ME学会の大会長をなさった際に、会長講演のテーマは「私とME」だったと思いますが、研究の苦労をとても楽しそうに話しておられたお姿がとても印象的でした。
 学生時代は同期や後輩と夏休みに、卒後はお正月に生理学教室や当時のME学教室の仲間達とお宅にお邪魔しました。沖野先生のご趣味は大変幅広く、鉄道模型からオーディオ、そして車までと多彩でした。特に、オーディオに関しては半端でなく、JBLの巨大スピーカーをマッキントッシュの重量級アンプで駆動し、その当時はレコードでしたが、ターンテーブルは生理学教室の研究室にあった旋盤で自作されました。その後、まだ世の中にCDプレーヤーがあまり出回らない頃から、最新型のCDプレーヤーを購入され、音の微調整に工夫を凝らされておりました。「気に入った音が出ないと何日もノイローゼになる」と言われたのを思い出します。お宅にお邪魔するたびに、機器が新しくなっていくことには驚くばかりでした。ご自宅もオーディオの音を考え、床や壁は設計から考えたと言っておられました。巨大スピーカーの前でニコニコ笑っておられるお姿が偲ばれます。楽しく語りながら夜遅くまで、奥様である佳子夫人には色々ご馳走になりました。大変お世話になりました。この場をお借りして、改めて心から感謝申し上げます。
 私は、その後、山林 一先生、太田保世先生のご指導の下、呼吸器内科学、呼吸生理学の道に進みましたが、研究面ではマイクロスフェア法を用いた臓器・組織血流の仕事を行っております。また肺循環系にも興味を持っております。卒後4年間過ごした呼吸循環生理学教室での大切な時間が、常に今の自分に流れていると感じます。私は、沖野先生が旅立たれる半年前に昇格させて頂きましたが、直接お目に掛かりましてご報告できなかったことが大変心残りです。沖野先生からご指導頂きましたスピリットを、今後さらに後進の指導に生かしていきたいと思います。それが東海大学医学部の卒業生である私たちの務めであり、沖野先生への恩返しであると思います。長い間のご指導に感謝申し上げますとともに、心から先生のご冥福をお祈り申し上げます。


寺田 洋 先生を偲んで
東海大学スポーツ医科学研究所 中村 豊(1期生)

 医学部1期生で整形外科医の寺田 洋 先生が平成17年7月に肺癌でご逝去されました。発症から約3ヶ月という若すぎる死であり、われわれにとっては医者という職業柄から何とかならなかったのかという無念な思いと、癌という病気の怖さを改めて思い知らされた思いでありました。
 寺田先生とは東海大学医学部の初めての学生として期待に胸をふくらませて入学して以来、今日に至るまで同じ整形外科の道を目指しながら歩んできました。その時間の中で先生の存在はいつも楽しく、話題性に富んだ存在としてあったような気がしています。今振り返ってみますと寺田 洋 先生は何か楽しいものをいつも我々にくださっていたような気がします。それは寺田先生の存在そのものであったり、話題であったり、持ち物であったりさまざまであったように思います。
 寺田先生の存在とはと自問してみると自分の生き方を貫き通した整形外科医であったと思います。単的には生涯独身を通し、独身であるのに自分の城である医院を開設して自分流の医療を展開し、自分流のアイテムを使いながら自分の時間をもっておられたということになります。これは結果的にではなく自分から作り上げていったところが寺田流なのだと思われますが、それが故に仲間からは羨望のまなざしで見られていました。寺田先生は学生時代から女性には非常にもてた存在で、誰も彼が独身を通すなど考えてもいなかったのに寺田流を貫きとおしました。整形外科の医局内では長らく独身会の会長であったわけでありますが、これもまた七不思議とも言われました。医療においても同様であり後輩からの証言をとりまとめてみても寺田流といわれる自身の考えと工夫を反映した手術を展開され、独自の手技もいくつかあったように思われます。また同時に外科医にとって重要な大胆さが存在した医療であったように思います。人と同じ事を行うことを好まず自分流を取り入れた器用さと創造性の持ち主であったように思います。
 そんな寺田先生が提供してくれる話題も寺田流であり話題性が高いものばかりでわれわれを楽しませてくれました。旅行の話であれば皆が手軽に参加できる交通公社の何とかパックでの話ではなく、交通公社の人に寺田パックを作らせて行った旅行の話となるわけで、いつも驚きと楽しさが入り混じった話題を提供してくれました。
 また先生の話題には他人の批判がないことに感心させられていました。もちろん人間だれしも批判の一つや二つをすぐに口に出すことは普通のことでありますが、寺田流にはないように思われました。他人に感じ取らせない先生の配慮があったのかどうかわかりませんが、先生の話題から批判めいたこととして感じ取れることはめったに無く、いつも軽妙なウイットとわずかな皮肉そして巧みな切り替えし言葉が耳に残るだけで批判という言葉はないように思われました。このこととの裏返しに寺田先生の批判もまた聞いたことがありません。皆から愛されるやさしさと頑固さの持ち主であったことは間違いなく、先輩の先生からも後輩の先生からも慕われていた先生はある意味で珍しい先生であったかもしれません。今でも突然目の前に現れて楽しい話を聞かせてくれる気がしてなりません。
 風貌は必ず皆と違うところを何がしか身につけて、都会的センスでありますが都会人になりきれないところをかもし出しながら、愛用の車を飛ばして颯爽と現れるのが先生でありました。すぐにでも先生が現れるような気がしてならないのですが、しばらくはお会いできなくなりさびしく思っています。スポーツ好きの先生とゴルフやテニスを一緒に楽しみながら軽妙なお話を聞いたりすることができなくなり、非常に残念に思いますが、またすぐにわれわれが先生を呼びに行くことになりますので、どうかそれまでは安らかにお休みください。ご冥福をお祈りします。


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