星医会 東海大学医学部同窓会
 
 会報(第35号)
 〜平成18年9月1日発行〜


会員のページ
天国の井出先生へ
今岡 千栄美(3期生)

 いつの日も進歩には勇気とリスクが伴うものという言い古された言葉があります。それを乗り越えて、確実にひとつの時代を造った井出先生が逝かれました。2月の小雨降る日曜日のことでした。
 “鬼のイデマン”の二つ名にビクビクしながらついて回った日々、いつしかそれが愛称となった日々、それは私自身の成長の思い出でもあります。先生の叱責は私たちの練度に反比例していました。
 井出先生と言えばPETの第一人者として核医療の世界になくてはならない人でした。そして、当然のようにいつも技術の向く方向を見つめられていました。まだまだ、オフィスにコンピュータの影も形もない頃、先生のデスクには当たり前のようにそれがありましたね。私が、電卓を叩き、統計計算の途中経過を紙面に書き取り、また電卓を叩きの繰り返しでようやく算出した結果、それが先生のデスクで、あっという間に検証されてしまうのです。私が当然のように「難しそうだ」と考えるものを、先生はひと目見ただけで「使えそうだ」と考える、そのあたりの発想からして、私たちとはまるで違う特別な存在だったのです。一方では心臓核医学検査の最前線にいつもおられ、急患が入ると、本当に誰よりも速く現場に臨場し、あれはやったか、これは忘れていないかと矢のような指示を出し、主治医の意識を高めては、すらっと長い足で去っていくのです。私などは短い足をフル回転させて、ただひたすら先生の後姿に追いすがるという日常でした。
 しかし、そうやって培われた技術を見る見識眼や臨床医としての使命感、愛情がPETという多額な投資を必要とするリスクを最先端にまで昇華させ、ひいては幾多数多の患者さんの病の進行を未然に防ぐ成果を出されたのだと思います。
 当時、医局の中からもPETの効用に期待する声と経営的に成り立つのだろうかと心配する声が錯綜していました。でも、井出先生の信念はおそらく揺らいだことはないのではと思います。集まりの席で、何かの会話の合間に、先生のPETにかける情熱、『やるんだ』という意欲が、ある時は楽しげに、ある時はパワフルに伝わってきたものです。今になって思えば、世界に名を知らしめた山中湖クリニックの成功は、この時すでに約束されていたのでしょう。いつの日も進歩には勇気とリスクが伴うものという言い古された言葉があります。しかしこれは凡人を戒める言葉。井出先生には、いつの日も進歩には自信と期待が伴うもので、リスクなど論外だったに違いありません。そしてこの進歩には、きっとたくさんの感謝が伴っていますよね。
 今頃、先に逝かれた五島雄一郎先生と、入院されて一滴も口にできなかった大好きなお酒を酌み交わしておられるでしょう。もしかしたら、毎日宴で大変かもしれませんね。思う存分おいしいお酒を堪能してください。


井出 満 先生を偲んで
東海大学医学部内科 講師 高橋 若生(6期生)

 平成9年、遅い春が訪れた富士山麓忍野村のある料亭でのことです。山中湖クリニックに勤務することになった私は、歓送迎会で挨拶をすることになりました。ところが、“学生時代最も怖かった先生は誰かと問われれば、それは正津先生と井出先生である。よりによって、その両先生の下で働くはめになるとは思いもしなかった・・・”と、酒の勢いも手伝って冗談ともつかないことを言ってしまいました。すると井出先生は即座に、“おまえらがオレを怖がるから、よけいにいじめたくなるんだよ”と言って、大きな声で笑われたのでした。
 井出先生は、平成6年東海大学第一内科を退職され、山中湖クリニックの院長に就任されました。Positron emission tomography(PET)を用いた新しいスタイルの検診をスタートさせるためです。当時、PETといえば一部の国公立病院に導入されていたのみで、それを三台同時に稼働させて検診を行うなどという斬新なアイデアは、周囲から半信半疑の目でみられたと伺っております。しかし、PET検診が早期癌の発見に極めて有効であり、かつ経営的にも成り立つことを自ら証明されました。当時腫瘍部長であった安田先生(現東海大学外科助教授)らの論文がLancetに掲載されてからというもの、講演や原稿、マスコミによる取材の依頼が山のように届くようになりました。国内のPET施設の関係者を一同に集めて開催されたPETサマーセミナーin山中湖は大成功を納め、ニューオーリンズで開催された全米核医学会においては、ジョンズホプキンス大学のWahl教授、ボン大学のRuhlmann教授とともにPET検診についての教育講演を担当されました。
 しかし、極めて多忙であったにもかかわらず、井出先生は日々の業務に一切手を抜くことがなく、学会からとんぼ返りしては診療にあたりました。また、施設内の隅々にまで気を配り、職員の接遇など常にサービス面での向上に努め、経営者としての視点も欠かすことがありませんでした。井出先生は院長室を設けようとせず、医局内にデスクを構えました。川田志明先生、松山正也先生、井出先生が正津晃先生を囲むように席に付かれ議論を闘わす様は、かつての東海大第一内科・外科合同カンファレンスを彷彿させるものでした。また、仕事での厳しい姿勢とは裏腹にプライベートでは実に気さくで陽気であり、よく故郷の今治から届いたという魚料理を振る舞って下さりました。
 その後、私は8年間お世話になった山中湖クリニックから大学へ戻りました。しかし、それからわずか8ヶ月後、先生の訃報を聞くことになるとは思いもよりませんでした。臨床家としての揺るぎない自信。頭の回転が人一倍速く、自ら先頭に立ち物事を推し進めていく性格。その反面無類のお酒好きで、先生の周りには人の輪が絶えることがない。その強烈な個性は独自の輝きを放って、我々の脳裏から消え去ることはありません。
 人生を疾風のごとく駆け抜けた井出先生。不出来な私たちに対して、情熱を持って御指導下さったことを一生忘れません。本当にありがとうございました。




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