星医会 東海大学医学部同窓会
 
 会報(第36号)
 〜平成19年3月1日発行〜


学内助教授誕生

卒業10年の回想
大磯病院 腎・代謝内科学 北村 真(4期生)

 2006年4月から内科学系助教授を拝命しました。卒業は1983年で移植学教室I(腎センター)に入局しました。心血管外科4ヶ月、一般外科3ヶ月、麻酔科4ヶ月、救急3ヶ月、泌尿器科2ヶ月、腎内科2ヶ月という研修を受けました。これを回想するだけで自分は「なんちゃって内科医」なんだという思いが募ります。
 当時は「これからは日本も移植の時代だ」と教授に言われて、単純にそうだろうなと思っていました。日本では移植の経験は多く望めないので、東ドイツのフンボルト大学(シャリテ病院)で1年間を過ごしました。あちらでは腎移植なんて週に2、3例のペースでやっているごく普通のオペですから、マスコミの前でスタンドプレーをしたがる医者も悲劇を演じる患者もいませんでした。
 帰国して大学院を終えて91年から社会保険三島病院に出向しました。「静岡県東部には今まで腎移植をやる病院がなかったので行ってこい」という話です。卒業生はおろか一人も知人がいない病院でした。こういう時には星医会の名簿で近くに卒業生の名前を見つけるだけで心強く思えます。三島ではとても親切にしていただき、泌尿器科と腎内科と透析室を診ていて問題はありませんでしたが「移植をやれ」という課題には正直かなり困惑しました。伊豆半島の先端まで静岡県東部地域の透析病院を一つずつ挨拶に回りました。「透析患者さんの中で移植を希望する方がいれば登録させて下さい」というわけです。毎日営業活動ばかりしたわけではありませんが、名簿にある透析施設を一通り巡回するのに1ヶ月以上かかりました。まだ移植ネットワークもコーディネーターもない頃です。移植の説明書を作り、採血をし、登録リストを作って患者さんの血液型やHLAなどを自分のノートパソコンに入れ(当時は白黒液晶でHDDは10MB程度が主流でした)、適合者を検索できるように準備しました。近隣の医師会などで移植の説明会や勉強会をやらせていただきました。当時は全国どこでも腎移植を推進しようとする先生方はみんな同じような苦労をしていたと思います。
 幸いだったのは三島病院の脳外科の先生がたいへん協力的だったことでした。コーディネーターがいない時代です。ドナーの予後について悲観的なムンテラをしたうえ、移植医を紹介してやっかいな説明をさせた後、承諾を得るのは脳外科の主治医の先生にとって疲れる仕事だったと思います。その頃近隣の脳外科の先生方と話をする機会があった時、自分の患者をドナー候補者と見られる事自体が敗北宣言を受けるようで嫌なものだと言われた事があります。さもありなんと思います。ともかく2例の腎移植を実施することができて93年に大学へ戻りました。
 それから97年の組織再編で腎内科へ移るまでは、自分が入院したこともあり、ばたばたした時期でした。今でも腎移植は(根治治療ができるまで)もっと普通の医療になるべきだと思っていますが、欧米であたりまえの医療でも日本には根づかないものもあるんだなあと考えるようになりました。今後の日本は、国際的にも歴史的にも未曾有の超高齢者社会に入りますが、日本人の死生観は欧米とは違うという事をふまえて対応しないと、医療費と医療者の負担が増えるばかりで患者は不満だらけのままになると、今後の戒めと考えています。




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