星医会 東海大学医学部同窓会
 
 会報(第36号)
 〜平成19年3月1日発行〜


◆訃報◆
”山林 一先生を偲んで”
東海大学東京病院病院長、呼吸内科学教授 桑平 一郎(1期生)

 2006年11月10日、山林 一先生が旅立たれました。私は一期生として入学当初から、そして現在呼吸器内科学、呼吸生理学を学ぶ者として約30年に渡り大変お世話になりました。ここに思い出を書かせて頂きます。
 山林先生は、初代病院長である故笹本 浩先生や初代医学部長である佐々木正五先生とともに東海大学医学部を開設された主要メンバーのお一人でおられます。医学部ならびに病院の建設に多大なるご貢献をなされました。また、東海大学医学部呼吸器内科学の初代教授としてその基礎を築かれました。初めてお目に掛かりましたのは「医学概論」のような講義であったと思いますが、伊勢原校舎2階の教室でお話を伺いました。当時としては稀であったと思いますが、米国の教育システム、特にレジデント制度の素晴らしさについて語られたのを鮮明に記憶しております。ご自分の留学経験を交え、臨床医としてこれから医師を目指そうという我々にスピリットを注ぎ込んで下さいました。その後、内科学としての呼吸器病学の講義が始まったのは4年生でした。呼吸器の領域では呼吸生理学が全盛の時代で、先生ご自身の専門領域である「フローボリューム曲線」の難しい理論を、いとも簡単に短時間のうちに黒板を使って分かりやすく説明されたのを覚えております。「末梢気道に閉塞性変化のある患者ではフローボリューム曲線の下降脚が下に凸となるのはなぜか?」「フローボリューム曲線の下降脚の傾きは、換気力学的時定数つまりタイムコンスタントの逆数であるので、ガス分布の不均等性は時定数の不均等性である・・・」という、これを読んでおられる方には、一体何を言っているのかサッパリ分からないような理論を10分ほどで極めてクリアに解説されました。自分にとっては、臨床に直結する研究であり、呼吸器内科学、呼吸生理学を学ばないといけないと感じた1つの動機となりました。この時の講義ノートは今でも私の手元に残っております。さらに印象に残りましたのは、講堂Aの大教室で、このフローボリューム曲線の話をタバコを吸いながらなさったことです。我々学生に対しても「良かったら吸いなさい」と言われ、講堂の中が教師と学生のタバコの煙で曇っておりました。今ではありえない話でありますが、とても懐かしく思い出されます。
 医師になってからも、いつでも気軽に何でも相談に乗って下さる先生でした。1988年10月末、私が留学に出発する数日前の日曜日の朝のことです。留学前にどうしても投稿したいと思っていた英文論文に目を通して頂きたく、ともかく時間がないので平塚のご自宅(当時は虹が浜マンションでした)に直接お電話を差し上げたところ、すぐ持ってきなさいと言って下さり、平塚の喫茶店で内容をご説明し論文をお渡ししました。先生は、なんとその日の夜までに論文を修正して下さり、私は成田からの出発の日に投稿することが出来ました。留学先で論文がChestという米国の雑誌にアクセプトされた通知を受け取り、国際電話でご報告を申し上げたところ、先生は「ホントかー!」と言われ、大変に喜んで下さいました。これが私の初めての英文論文となり、心から先生に感謝致した次第です。
 呼吸循環生理学教室の初代教授であった沖野 遙先生が旅立たれたのは2005年10月でした。沖野先生は、当時、「山林も来ると言っているので自分も東海に来た」と言っておられました。昨年そして今年と、東海大学医学部開設に貢献された先生方がおられなくなることは本当に寂しいです。また、日本の呼吸器病学の世界で、一時代を築かれた先生のご逝去は悲しく、時代の過ぎる早さを感じます。自分も呼吸器内科学の教授に昇格させて頂きましたが、山林先生から注ぎ込んで頂いたスピリットをさらに後進の指導に生かしていきたいと思います。それが卒業生である私たちの務めであり、山林先生への恩返しであると思います。長い間のご教示に感謝申し上げますとともに、心から先生のご冥福をお祈り申し上げます。


山近記念総合病院 内科科長 林 芳弘(2期生)

 ピシッと音を立てて砕けるチョーク。我々2期生の受けた山林先生の授業では、よくチョークが飛んで来ました。学生時代の山林先生のイメージは、この怖さに象徴されていました。私は、卒後2年間の研修医を終えた後、17年間、呼吸器内科に籍を置かせていただきました。その間、山林先生に何を怒られたかと考えても、何も思い浮かびません。それどころか、一緒にスキーに出かけたり、麻雀をしたり、釣りをしたりという楽しい情景が、昨日のことのようにはっきりと思い出されます。診療では、我々の自主性を重んじて下さり、本当にのびのびと仕事をさせていただきました。山林先生に守られているという安心感、それに応えるために自然と皆が勉強するという、とても良い環境があったと振り返ることができます。学生時代とは、イメージが全く異なる山林先生。最後のお別れの時、お棺の中でもシャツにネクタイ、ジャケットがとてもお洒落で、よく似合っていました。これからは空から、そのお洒落な姿でタバコをくわえながら、我々を見守って下さい。本当にありがとうございました。


横浜呼吸器クリニック 睡眠呼吸障害センター 小野 容明(3期生)

 もう10年以上もまえのことです。旧東海大学病院学部棟2階の第一会議室に山林先生の一喝が轟き、そこに居合わせた誰もが凍りつきました。そのターゲットは私です。「小野、おまえの研究発表は在宅医療に全く言及されていなんとちゃうか。金の無駄遣いは許さん。」当時、私は第二内科の太田保世教授の指示を得て、高崎雄司先生に睡眠時無呼吸障害の臨床を一から学んでおりました。いくつかの事情が重なり、私ひとりがこの分野を任されておりました。折りしも在宅医療の重要性が世に問われ、いち早くその趨勢を捉えた帝人株式会社が在宅医療寄付講座という莫大なグラントを設立し、それを獲得し統括していたのが山林先生でありました。「小野、おまえにこの研究費、高崎のあとを継いでもらおうと思うとる。しっかりやれや。」といわれ、喜び勇んで、好き勝手にハードの拡充をしておりました。睡眠時無呼吸症候群(SAS)の臨床は昼夜を問わぬ厳しい業務であること以外は大変興味深く、特に私は心脳血管障害の合併というテーマにのめり込んでいきました。そして、SASの様々な血栓形成に関する特性を見出しはじめ、得意になっておりました。そのデータを寄付講座の研究成果として帝人の重役の前で、プレゼンテーションしていたのです。然し、そんな個人の興味に過ぎぬ臨床データは帝人株式会社が望むところではありません。今にして思えば簡単なことなのですが、SASの在宅医療展開に如何なる診療システムを構築すべきかがこのグラントの命題であるのに、私は盲目的な自己顕示欲に身を委ねてしまったのです。その点を山林先生にこっぴどく叱られたのでした。すぐさま私はパワーポイントを閉じ、先生に寄り添うように、うな垂れていました。不思議と周囲の視線はあまり気になりませんでした。先生は廊下の向にある自室で待つように私に指示し、言われるがままに従いました。ひとしきりするとお戻りになり、私の過ちを諭され、明日から何をすべきかを説いてくださいました。山林先生が教授してくださったひとつの大切な事象です。先生は全ての医局員に分け隔てなく、さまざまなチャンスと物資を与えてくれました。例えば海外留学、学会参加、スキー旅行、遠征海釣り、素敵な食事会、潤沢な研究費、適切な研究指針と厳しい学会予演会。第二内科出身者全員がこの恩恵に与りました。私は今年もこの季節になると先生から頂いたイヴ・サンロランの茶色のツイードジャケットに袖を通し、そして改めて先生からの教えを思い出し反芻するのです。「医師として、君は何を社会に求められ、君は何を社会に与えられるのか」。どうか安らかにおやすみください。心よりご冥福をお祈り申しあげます。ありがとうございました。山林一先生。


ひまわり呼吸器科 金山 一郎(4期生)

 学生時代を振り返ると、私はどうしようもない学生で、よく医者になれたものだと思います。まず、講義に出たことがなく、山林先生に顔を合わせるたびに、叱られていました。『また、お前か。』という関西訛りが、懐かしく思い出されます。
 そんな私の転機になったのは、大学4年のときの交通事故です。車に飛び込んだガードレールで頭を切って近くの救急病院に担ぎ込まれた私を、迎えに来ていただいたのが、先生でした。今となっては、頭がさがるばかりです。
 その後も卒業までは多大なご迷惑をおかけして、呼吸器内科に入局いたしました。本当に面倒見の良い先生で、入局後も公私にわたり、お世話になりました。
 現在、なんとか、呼吸器科で診療所をやっていられるのも、先生のお蔭と思っております。
 先生は、肺気腫症でしたが、大好きな煙草を、おやめになることはありませんでした。呼吸器科の医師が喫煙するなど、基本的には考えられないのですが、「山林先生なら良いか。」と言うような不思議な人徳?が具わっていたようです。
 東海大学病院の呼吸器病棟に勤務していた、看護師さんや医師で何年かに一度、同窓会をやっています。先生は、この会を楽しみにされており、いつも出席されていました。昨年の6月の出席が、最期となってしまいましたが、呼吸不全はかなり進行していたようです。それでも、ご出棺のさいは、何カートンもの煙草と一緒に旅立っていかれました。
 とても出来の悪い学生でも医者になれ、呼吸器の医局は喫煙者だらけという、今では考えられない、過去の良い時代が終った気がします。
 偉大な先生でした。謹んでご冥福を、お祈りいたします。


京浜中央クリニック 岡本 正史(4期生)

 2年に一回ぐらいだろうか、昔の第II内科、胸部外科、病棟関係者が同窓会のように集う。そこでお約束のように話されるのが、「○○先生に叩かれた」「カルテにバカと書かれた」「カンファレンスで蛇の生殺しのように潰された」等など、知らない人が聞いたら、なんと残酷な医局だと思うにちがいない。知っている者にとっては、なんとも懐かしく痛快な話なのだが。            
 私が卒業するころ第II内科は学生から「怖い」「真面目で厳しい」「つらい」と思われていたふしがある。当時、山林先生が学生教育の責任者であったため、学生にはどこか近寄りがたいところがあったのかもしれない。そんな医局に元来、劣等生の私がなぜ魅せられたのか。
第II内科をローテイトしたのは、右も左も分からない前期研修医の4ヶ月目のこと、その私が経験した山林先生の作られた呼吸器内科は「厳しいが見守っている」「真面目だが自由奔放」「つらいが面白い」ところだった。医局も病棟も一体となり、よい仕事をすることに真面目に取り組む環境に身をおけたことは新米医師の私を大いに刺激した。あの雰囲気は今でも独特のものと言うしかない。あたかも山林先生のように。
 第II内科の研修も終盤のころ病院の納涼会で塩谷先生に呼び止められた。「山林先生がいらしてるから入局したいって言ってきたら」と引っ張っていかれた、『えっ、うっそ、そういうのって、心の準備が・・・』と内心叫びつつ、前に立った瞬間「先生、II内に入りたいんですけどいいでしょうか」と言っていた。先生は「おお、そうか、ええよ。岡本、お前はガッツがある。がんばれよ」と。真夏の夕暮れ時だった。今でもその時の事ははっきりと覚えている。
 平成18年7月8日大磯プリンスホテルで冒頭に紹介した会があった。山林先生も来られ皆大いに盛り上がった。翌朝、幾人かと先生を囲んでコーヒーを飲んだのが、お会いする最後となった。あの呼吸器内科に献杯! 先生が築き愛された東海大学医学部そして病院に献杯!


国立国際医療センター 川名 明彦(5期生)

 山林先生、ありがとうございました。
 恩師である山林一先生の御冥福を心よりお祈り申し上げます。
 年に一回、非常勤教員として私が伊勢原校舎にお邪魔する時は、僅かな時間でも山林先生のお話を伺うのが楽しみで、必ず先生の部屋を表敬訪問させていただいておりました。先生は煙草をくゆらせながら、「川名くん、最近はどう、がんばっとる?」と声をかけてくださり、私はそれにお応えして近況報告をするという具合でしたが、先生のお顔を拝見するだけで力がわいてくるのでした。ところが去年の夏、大磯でお目にかかった時、少しお疲れの様子で気がかりでした。それからしばらく後、突然入院されたと伺い、真新しい東海大学病院に御見舞いに伺ったのが私にとって最後の表敬訪問となってしまいました。
 私は現在、東京都新宿区にある国立国際医療センターで、主に呼吸器感染症、輸入感染症、院内感染症などの対策に取り組んでおります。私がこの道に進むことになったのは、一重に山林先生の御導きによるものです。私は昭和59年に東海大学医学部を卒業後、山林先生の主宰される呼吸器内科(当時の第二内科)に入局させていただきました。ここで山林先生から呼吸器疾患の診療を通じて臨床医のあるべき姿を見せていただきました。この時の先生の姿が私にとって理想の医師像となり、現在も変わらぬ目標となっています。
 研究面等でも本当に御世話になりました。山林先生は呼吸不全や呼吸生理学といった分野の大家であり、それは第二内科が最も得意とする研究テーマのひとつでもありました。しかし私は無謀にも、山林先生の大学院に入学する際、呼吸器感染症の勉強をしたいというわがままを申し上げました。山林先生は直ぐに当時の微生物学教室の佐々木正五先生、小沢敦先生に話をしてくださり、御蔭様で私は大学院で感染症の研究をさせていただくことができたのです。その後、HIV/AIDSなどのウイルス感染症の勉強のため、英国留学のチャンスを下さったのも山林先生です。留学中のロンドンで山林先生に食事を御馳走になったことを、今でも妻と思い出します。帰国後、さらに感染症の分野で学ぶ機会を模索していた私に、国立国際医療センター呼吸器科への異動の道を開いてくださったのも山林先生でした。現在の施設に移り、早12年目に入りましたが、この間、私は呼吸器感染症一般の診療はもとより、結核、感染制御や、SARS、鳥インフルエンザ、新型インフルエンザ対策などに関わることができました。最近では臨床以外の仕事のほうが多くなり、少し寂しさを感じることもありますが、山林先生に叩き込まれた臨床スピリットは今でも私の中に在り続けています。
 山林先生の笑顔をもう見ることができないのは信じ難いことですが、私はいつでも心の中で先生の笑顔と御声とに接することができます。これからも不肖の弟子に変わらぬ叱咤激励をお願い致します。先生の下で学ばせていただいたことを誇りに思い、御恩に心から感謝申し上げます。先生、本当にありがとうございました。


健康管理学 谷垣 俊守(6期生)

 2006年11月10日に山林一先生は80歳で生涯を閉じられました。健康管理学に在籍している私は治療に参加できませんでしたが、入院されてから毎日、山林先生のお顔を拝見する事ができました。ここでは山林先生について思い出されるままに、紙面の許す範囲で記させて頂きます。
 山林先生とゆっくりお話をする機会を初めて得たのは、私がまだ医学部5年生(1983年)の大晦日でした。徹夜で下宿の大掃除をした後、神戸の実家に帰るべく小田原駅から朝8時頃の新幹線に乗り、すぐに(今は無き、テーブルと椅子のある)食堂車に向かいました。長い行列の先頭に居らしたのが宝塚の御自宅にお帰りなる(イタリア製?の)ブルゾン姿の山林先生で、私と目が合うとすぐに声をかけて下さいました。長い行列を並ばずに済んだうえに御馳走になり、単にとてもラッキーな年末であったとしか思っていなかった事を覚えています。その時は、まさか山林先生の門下生になるとは思ってもいませんでしたから。
 卒業後、一番最初の臨床研修の場であった第2内科に入局し、山林先生にはとても自由な環境で大学における呼吸器内科医に育てて頂きました。今でも、教授回診時の患者さんに対するとても丁寧で優しい言葉や振る舞いが、鮮明に思い出されます。また、交換留学生達が「山林先生は、医学関係のことをほとんど話題にしない」という意味の事を言っていたのが印象に残っています。その後、アメリカ留学の際に私が初めて書いたapplicationに関する英文手紙をみて、「本を見て書いたなぁ。本にはこの様な文章が書いてあるけれども、アメリカ人はこんな英語を実際には使っていない」とおっしゃって、実に生き生きとした英文で添削され、その文章に感銘を受けた記憶が今も残っています。交換留学生達の言葉や生き生きとした英文は、山林先生のアメリカ文化に対する深い理解によるものであるという事が、留学後になってようやく解かりました。
 山林一先生は、第2内科教授の他に副医学部長、健康科学部を設立されて同学部長、さらに伊勢原キャンパス長等を歴任されており、その頃の事についても続けたいのですが、1989年までの極めて個人的な思い出だけで字数制限を越えてしまいました。ご冥福を祈りつつ、この稿を終わらせて頂きます。




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