星医会 東海大学医学部同窓会
 
 会報(第37号)
 〜平成19年9月1日発行〜


卒業生教授誕生

人間と動き
東海大学スポーツ医科学研究所 教授 中村 豊(1期生)

 東海大学には大学の付置研究所として幾つかの研究所が存在しますが、その中の1つにスポーツ医科学研究所があります。1995年に湘南キャンパス内に建てられた15号館の一部にスポーツ医科学研究所が設置され、この4月より教授に就任しました。
私が整形外科医を志した背景には運動の存在が大きく影響しています。運動を具現化する骨、筋、関節などの運動器は私にとって相性のよい組織であり、運動器の外科的治療分野である整形外科は私にとって長く続けられる分野であろうと入局を決定した次第です。
 私の入局頃よりスポーツ整形外科という呼称が聞かれるようになり、私もスポーツ整形外科を目指そうと心に決め、自分なりにスポーツ継続のための整形外科なのだと解釈して関節外科医を行ってきました。
 動くことが何より好きである私には動くことのもつ意味について考えることがあります。整形外科疾患のもつ不利益の代表は痛みという症状で頻度的にも最も多いと思われますが、この痛みを治せば運動器の機能が回復することは実際に多いことですが、痛み以外に運動器障害を治療する最大の意味は何かと考えれば、人間がもつ動く機能を完全回復させることだと思います。整形外科は機能外科と言われる所以はまさに動きにあると思われます。
 動物とは動く物と書くように動きをもつもので、人間も動物の仲間である以上、動かない人間は動物としての生命を断たれたと言っても過言でなく、人間は動くために骨格筋を機能させ、骨格筋は最大のエネルギー消費組織であり、また最大の熱産生組織で、熱の発生のない人間は死を意味するのも解釈できます。
 では実際に動きを奪われた人間はどうなってしまうのか?それは人間としての表現手段を失ったことであり、脳細胞の思考内容を表現することができなくなったことであります。人間としての人格・個性を発揮できなくなった状態とも考えられます。したがって、生命体としての人間ではなく人格・個性を持った人間として存在するには動きが不可欠であり、動きで個性を表現することで存在意義を発揮しなくてはならず、人間の個々の違いは動いてこそ明確になるものだと考えるからです。
 整形外科病棟の高齢化は益々拍車がかかり、70歳代と聞くと若く感じてしまうのは私だけではないと思います。入院患者さんの多数を占める障害のひとつに大腿骨頚部骨折があり、寝たきり老人の原因の第3位と言われています。ベットで寝たきり状態の患者さんには人間性を強く感ずることはなく、隣の寝たきり状態の方と比較して個性の違いを感ずることもほとんどないと言ってよく、頭の中を思い巡らせるのは個々の病状経過の違いだけではないでしょうか。
 動きのない人間は人間らしさを失っていくと考えれば、我々整形外科医はさらに動きの回復に全力を尽くし、人間が個性豊かに存在できるように仕向けなくてはならないと考えます。また運動器機能を最大限に発揮して形づくられるスポーツに対しては障害予防に磨きをかけ、障害からのリハビリテーション
およびリコンディショニングについてさらなる研鑽を積む必要があると考えます。
 今の私には治療として動きを回復させるより、動きを鍛える意味での機能回復の仕事が増えてきていると思われますが、今後はトップアスリートのスポーツ障害から日常活動における動きの獲得まで幅広く対象を求め、さらに動く意欲の開拓に向けて仕事が出来ればと考えています。また何をさておき自分自身の加齢に伴う機能低下に抵抗し、自らが医療費削減に率先して協力したいと考えています。


【略歴】中村 豊(なかむら ゆたか)

1980年 東海大学医学部医学科卒業
1986年 東海大学医学部整形外科学教室助手
1987年 恩賜財団済生会若草病院整形外科医長、日本体育協会認定スポーツ医
1991年 東海大学整形外科副医局長、日本整形外科学会スポーツ認定医
1993年 東海大学医学部付属大磯病院整形外科医長心得
1995年 東海大学スポーツ医科学研究所
1996年 東海大学スポーツ医科学研究所専任講師
2002年 東海大学スポーツ医科学研究所助教授
2007年 同上 教授就任 現在に至る.


大学専任教員になって
白梅学園短期大学心理学科 教授 尾久 裕紀(2期生)

 本年4月に白梅学園短期大学心理学科に教授として着任しました。これまで星医会会員の皆様には大変お世話になり、この場をお借りしてご挨拶申し上げます。私は本学の2期生として1981年に卒業し、その後東海大学医学部精神科学教室で学びました。自由な雰囲気の中、私は精神分析グループに所属させていただきながら精神病理学、医療倫理学などを学ぶことができました。暖かい目で見守ってくださった諸先生方の懐の深さに感謝し、一緒に学んだ学生さん、研修医の先生方からいつも多くの刺激をもらい、大変充実した日々でした。
 1997年3月まで大学に在籍し、4月より東京で精神科の診療所を開設しました。皆様のご支援により多くの患者さんに利用していただきました。1999年より産業保健の仕事も始めましたが、ちょうどその頃より企業におけるメンタルヘルスの重要性が大きく取り上げられるようになり、産業保健の経験のある精神科医の需要が一気に増大しました。多くの企業などからコンサルタントあるいはメンタルヘルスに関連するセミナー・講演会の依頼があり、精神科医がこれほど必要とされる時代が来ることは予想もしていませんでした。しかし、現実的には診療所と企業の仕事を一人で適切に対応することには限度がありました。このような場合、人を入れて業務を拡大するという選択もありますが、そうなると自分の方向性とは異なると考え、診療所を当時非常勤だった本学卒業生の鷲見恵美子先生にお願いすることにし、私は企業の仕事に専念することになりました。最も多いときで十数社と関わり、社内のメンタル不全者の面接をはじめ、メンタルヘルスの体制作り、リスク管理、管理職研修などに携わりました。まだこの分野での専門家が少なく、方法なども確立していなかったため、大変やりがいがありました。
 さて、私が今回大学の教員になりましたのは、突然思いついたからではありません。精神科の助手になった頃から教員になることを考えていました。振り返ると、私は主に臨床に携わってきましたが、研究、教育にも大変重要性を感じ、興味を持っていました。医学部のときには学生の担当をしており、共に学び、時には勉学以外(?)の相談に乗ったりしていましたが、学生の自由な発想、考え方は私にとっても貴重で楽しい経験でした。そのような体験もあり、教員の道を選んだのだと思います。
 現在勤務しています白梅学園は、東京家庭学園が前身で、短期大学は1957年に設立されました。現在、短大に保育科、心理学科、福祉援助学科、専攻科があり、2005年には4年制の大学が開設しました。四季折々に美しい玉川上水緑道沿いにあり、大変恵まれた環境にあります。初めて面接に訪れた時(私は公募で採用になりました)、学内の雰囲気と周りの環境がとてもよく、いっぺんに気に入りました。学生数は九百数十名と小規模ですので学生一人一人にきめ細かな対応ができます。現在、週1日企業で精神科医として、週5日大学に勤務しています。まだ慣れないことも多々ありますが大変充実しています。大学での研究テーマは、医学部にいた頃から続けている医療における法と倫理の問題をさらに発展させ、また産業領域にも広げようと考えています。急速に変化していく社会の中で、個人(患者、労働者など)が自分で決定すること(自己決定)に関してこれまでの臨床経験と理論から検討しようとするものです。
 今後、東海大学病院をはじめ、臨床の第一線にいらっしゃる皆様から是非お話を伺いたいと思っておりますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
 最後になりましたが、星医会の一層の発展を心より祈念いたします。


【略歴】尾久 裕紀(おぎゅう ひろき)

1981年3月 東海大学医学部卒業
1986年4月 東海大学医学部助手(精神科学教室)
1991年6月〜1992年5月 CHS Paul Guiraud(フランス)留学
1997年4月〜2004年3月 北青山診療所院長
1999年7月〜2007年2月 日本アイ・ビー・エム株式会社(嘱託)
2007年4月 白梅学園短期大学心理学科教授



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准教授 今年は6名誕生

 今年も下記6名の先生方が准教授に昇格されました。
  王 康雅 先生(小児科:6期生)、谷垣 俊守 先生(健康管理学:6期生)、
  西崎 泰弘 先生(消化器内科:7期生)、吉岡 公一郎 先生(循環器内科:7期生)、
  角田 隆俊 先生(腎代謝内科:9期生)、福山 直人 先生(生体構造機能学:12期生)  
 なお、今号では次頁に王先生、谷垣先生、西崎先生、角田先生のお声をご紹介させていただきます。


”多くの出会いに感謝” そして・・・               
          〜我々は小児医療の明日を切り拓く!〜
専門診療学系・小児科学 王 康雄(6期生)

 このたび、猪子英俊医学部長、幕内博康病院長、猪口貞樹学系長、市川家國教授の御尽力により、准教授に昇格させて頂きました小児科学の王です。私は東海大学6期生として卒業以来、東海大学一筋に小児科学の道を歩んでまいりました。この間、木村三生夫教授、高倉巌教授、市川家國教授の元で、小児科学全般、予防医学、呼吸器疾患、救急医療を学び、現在に至ります。今回、尊敬する金渕一雄星医会会長より御依頼を賜り、たいへん僭越ではございますが御挨拶申し上げます。
≪出会い・諸先輩方≫ 多くの先輩方に御指導御鞭撻を頂戴致しました。今でも心に残るのは「小児科医は自分の子供を育てて初めて一人前」という教えです。当時の私は「十分に一人前」を自負しておりましたが(笑)、今ではその教えが理解できます。今後も体力・知力・精神力の続く限り、「一人前の小児科医」を目指し努力精進して参る所存でございます。
≪出会い・同期生≫ 小児科学・野村雅寛先生、小児外科学・平川均先生をはじめとする多くの同期生が現在も母校で活躍されています(詳しくは昨年の整形外科学・東永廉先生の御挨拶を参照ください。本当に濃いメンバーです!)。お互いの存在に刺激をうける同志・ライバル・友です。
≪出会い・後輩諸君≫ 私は「後輩に恵まれ支えられたからこそ、今がある」と思っております。頼もしい後輩たちよ。皆で突き進もうじゃないか、こどもたちのために!
≪出会い・阪神淡路大震災≫ 逆境の中で明日を信じ強く生きる被災者の方々を目の当たりにし、「本当の強さと優しさ」を学びました。私の医師としてのスタンスに多大な影響を与えてくださった方々に、心より感謝申し上げます。
≪出会い・八王子≫ 松崎松平病院長の元、「一丸」となって立ち上げに参画した日々は、今でも「楽しい想い出」です。『白いキャンバスに自分の色を描く』なんて夢見ていたころが懐かしく思えます。自分色とは・・・やはり黒(?マフィア色??)でしたかね(笑)。尚、八王子には今でも続く『飲みたい奴は俺について来い!』という職員親交の場があり、会員数も50名以上に膨れ上がりました。皆様もどうぞご参加ください!
≪出会い・患者さんと御家族≫ 小児科医は「自分の子供と同じように」「自分の子供だったらどうする?」という考えの下で診療に当たっております。信頼を得ることは難しく、信頼を失うことは容易です。「信頼」という言葉は一生のテーマです。
≪そして未来≫ これからどのような未来が待ち受けているかは誰にもわかりません。小児医療を取り巻く環境は厳しく、すぐに好転することはないでしょう。しかし、現場で働く小児科医は、その使命感で日々努力しております。「医療は“現場”で行われている!」その現場の声を行政へ反映させていくことも、これからの私の使命の一つでしょう。患者さん、そしてその御家族にとって『優しく頼もしい小児科医の軍団』であることが東海大学医学部専門診療学系小児科学の姿であることを此処に記し、ご挨拶に代えさせて頂きます。今後とも御指導御鞭撻の程、何卒宜しくお願い申し上げます。
≪最後に! 研修医の先生方、そして学生の皆さんへ≫ 各種報道で言われているように、現在の「小児科医不足」は深刻な問題です。皆さんの大切なご子息・ご令嬢が病気になられた時は、まだ小児医療の崩壊は訪れていないでしょう。しかし先のことは誰も保障してはくれません。「他の人が小児科医になればいい」と考えておられませんか? 小児科医になりたくない人を無理にお誘いすることはありませんが、「小児科医」になられることを少しでもお考えの方は、ぜひ我々の軍団に飛び込んできてください。私は『小児科医』という職業に誇りを持っています。そして『Professional』という言葉の炎をいつも心の中で燃やし続けています。「未来あるこどもたちのため」共に頑張りましょう。期待して待っています。


准教授に昇格して
基盤診療学系・健康管理学 谷垣 俊守(6期生)

 この度、基盤診療学系・健康管理学准教授に昇格させていただきました。私は1985年に卒業し、2年間の前期研修修了後、前期研修医として最初にローテートした第二内科(後に呼吸器内科に名称変更)に大学院生として入局しました。当時の第二内科大学院は、4年間のうち最初の2年間は後期研修医(現在の臨床助手)と同じ臨床研修をして、3年目に1年間臨床を離れて研究をし、また4年目に臨床研修へ戻るというプログラムになっていました。今でも、大学院2年生の時に大磯病院へ行った時のプレッシャーは大きかった記憶があります。何しろ呼吸器内科医は私一人であったため、医長代行も兼ねる事になり、卒後4年目の私にとって大学病院の看板がとても重く感じられました。
 急性呼吸不全に興味を持って第二内科大学院に入った私は、急性呼吸不全の中でも代表的な急性呼吸窮迫症候群(ARDS)について研究をしたい旨を、指導教授であった(残念ながら、昨年亡くなられた)山林一教授に話したところ、日本国内外どこでも良いから留学先を探すように言われました。当時の自分なりに調べて、アメリカのスタンフォード大学呼吸器内科へ留学しました。海外留学する最初の大学院生であった事もあり、当時の大学院在学中の海外留学は1年しか認められておらず、留学2年目は大学院を休学せざるをえませんでした。休学のうえでの留学でしたが、予想以上の研究成果に加えて、今でも交流が続いている多くの友達もできました。来日の際、狭い我が家に泊まってもらった事もある友人宅を、先日の学会時に訪問する事ができました。また今年のゴールデン・ウィークには、別の友人が何と(いわゆる豪華客船の)船医として、奥さんと一緒に東京に寄港しました。日本の地で会い、自分の子供達を紹介できた事には、感慨深いものがありました。何しろ、初めてアメリカで会ったのは1989年ですから。また、医者以外の日本人の友達も多くできました。留学先がシリコン・バレーということもあり、コンピューター関係の企業および工学部から留学していた連中なのですが、今でも年に1〜2回は必ず集まっています。なかなか医療関係以外の友達を作る機会のない私にとって、全く違う思考回路を持った異業種の友達と酒を飲むのは、とても楽しく貴重な時間です。
 約2年間の留学後に大学院へ4年生として戻り、大学院を修了しました。その後、呼吸器内科の助手、講師として臨床、研究、教育に携わりました。年月の経過と共に臨床に費やす時間が多くなり、実験をする時間が取れない状態になっていきました。
 そのような状態にあった昨年4月、基盤診療学系に健康管理学が開設されたのを期に移籍しました。健診センターにおける健診業務以外の時間は研究に費やせると思っていたら、知らない間に保健管理(現、健康推進)室長にもならされていました。初めて知ったのは、昨年3月に廊下ですれ違った某教授の言葉からでした。その時は、保健管理室については全く頭の中になかったので、その教授の言葉の意味を理解できない状態でした。保健管理は誰かがやらないといけない仕事なのですが、まさか自分がする事になるとは思ってもいませんでした。今迄は、定期健康診断および結核患者接触職員に対する定期外健康診断(昨年度、早速マニュアルを一部改訂しました)を中心とした保健管理が主な仕事でした。ところが今は、世間で話題になっている過重労働とメンタル・ヘルスに関する法律ができたために、それらに関する管理にも相当のウエイトをおかなくてはならなくなっています。例えば、月平均80時間以上または1ヶ月でも100時間を越えると過重労働となり、面接をしなければなりません。(但し、医師は対象外です。もし、医師も対象にするとほぼ全員が対象となってしまいます。)特にメンタル・ヘルス関係の面談件数は、昨年度より既にかなり増えており、(とにかく話を聞かないといけないため、どうしても1人あたりの時間が長くなってしまい)なかなか実験はできない状態です。
 最後に、健診センターについて。健診センターは、開業を考えられている先生の開業前トレーニングとして、絶好の場です。胸部X線写真、心電図、腹部超音波といったクリニックにおける日常検査が、健診必須項目となっているからです。当然の事ながら、その他の検査項目も全身の多臓器にわたっています。実際に、開業前に健診センターでトレーニングされた某科の先生も居ます。という事で、開業を考えられている星医会の先生方、是非ご一報ください。また子育て等で医療から離れていたけれども、生活習慣病に興味があり、東海大学病院非常勤医師として健診面接を担当してもよいと考えている先生方のご一報もお待ちしています。


准教授に昇格して -The 3rd stageに必要なものとは
内科学系・消化器内科学 西崎 泰弘(7期生)

 このたび、2007年4月1日より内科学系准教授に昇進させて頂きました。ご推挙下さいました東京病院長 桑平教授、内科学系長 高木教授、消化器内科 渡辺診療科長に御礼申し上げます。また、「抗加齢ドック」で苦労や喜びを共にして居りますライフケアセンター長 石井教授、同副センター長 川田准教授、猪子医学部長そして常勤/非常勤の東京病院消化器内科スタッフに感謝申し上げます。今回の私の昇進は、診療科の教授によらないプロモーションであり、「自分は報われていない・・」と感じている方々は(まずご自分を振り返りつつ)、「誰かが見ていてくれる」と希望を持って(辞めないで)頑張って頂きたいと思います。
 私は付属高輪台高校出身の7期生で、大学時代は空手部に所属していました。その縁で今夏、東医体空手道部門の大会長という中々出来ない経験をさせて頂きました(次に順番が回ってくるのは30年後とのことです)。大学卒業後は実家から通える慶応義塾大学の研修医となりました。慶応に行った理由は、近いことに加え、消化器内科が消化管と肝胆膵の2つに分かれていなかった事、そして何と云っても海外留学への門戸が圧倒的に広かったためでした。
大学院卒業と同時に留学の機会を頂きましたが、当時の慶応土屋内科は同時期に10人以上(通常の医局丸ごと一つ分)が全員有償で留学している凄い教室でした。3年間の留学生活の終盤、土屋教授が引退され、東海大で松崎教授が内科学3主任教授として教室の整備を行って居られたため、卒後9年目で母校に帰りました。伊勢原に戻ってすぐ、星医会から初回と第二回の星医会賞を賜わりました。ご恩は感じつつ「総会」に出席できなかったことも多々ありこの場をお借りしてお詫び申し上げます。98年からは東京病院勤務となりましたが、板倉先生という良き指導者のもと、「消化器が一番得意な内科医」を目指し、消化器内科的手技の向上と内科専門医的診療に軸を置きつつ、「これからは予防医学!」と勝手に思い込み総合健診専門医や人間ドック認定医、産業医から国家資格の労働衛生コンサルタントを平行して目指しました。そのうち、「予防医学の究極は抗加齢医学」と考えるようになり、02年より関わりを持ちはじめました。04年桑平先生が東京病院長となられた時より副院長を仰せつかり現在に至りますが、今まさに時代は予防医学となり、昨年東京病院に開設した「抗加齢ドック」では事務局長兼面談医として関わり、複数マスコミに出演するなど非凡な日常への幕を開いて頂きました。性格的には一本気ながら、仕事については興味旺盛かつ典型的O型性格で広げて良かったと思っています。
 東海大学医学部は1974年に開設されはや四半世紀がすぎました。診療科の長である教授は、多くは三代目となりましたが、期待に反して校歌や建学の歌を歌える人が減っている?と危惧しています。医者の世界が25年前と大きく変わり、学位より認定医、大学より市中病院、治療から予防中心へ、女医さん3割超、医師に労基法が適応され、価値観の多様化とQOL重視の機運が高まる時代に、自分が目指した時の教授像をそのまま実践し、理不尽な運営で医局員は大量流出、大学には殆ど居らず、研究費・学事予算は一括管理で自由を与えず、挙げ句の果てには嘘八百並べて教室人事を図ろうとする。そんなヒトは居ないと思いますが(居たらびっくり)、母校がそのような人に蹂躙され滅んでゆくのだけは見たくないと思っています。肩書きとは、「大きいから偉い」「偉いから大きい」のではなく、単に「お役目」を表すものと考えています。一応の資格基準を満たしつつ、肩書きに課された役目がこなせるから(またはそう期待されて)与えられるものであり、「組織をまとめ、成長させる」事こそが、任命者はもちろん、下で働く者も期待することだと思います。私はまだ中堅世代の中間管理職ですが、これからも「和を以て尊とし」で参りたいと思います。今後とも何卒ご指導ご鞭撻のほどお願い申し上げます。


日本の腎不全医療に責任を持つ
内科学系・腎代謝内科学 角田 隆俊(9期生)

 現在は腎代謝内科と合併して無くなりましたが当時の移植学教室の佐藤 威教授がクラブの顧問でした。6年の夏休み中に1週間病院研修をするように言われました。そのとき平賀聖悟助教授の腎移植の手術を見たのが腎不全医療に関わることになったきっかけでした。移植腎の動静脈を解放すると、それまで白く生命活動を止めていた腎臓がピンクに染まりなんと尿管から尿が出てくるではありませんか!!「これは、神のなせる技に近い」不覚にも感動してしまったのです。結局、北村 真先生、高宮登美先生、飯田宜志先生の甘言の元、移植学教室Tに入りました。ところが移植の症例は、微々たるもの。私の周りに来る患者さんは腎不全の合併症に苦しむ患者さんと尿毒症で苦しむ患者さんで溢れていたのでした。現在日本の腎不全患者さんは27万人、ネットで年間1万人の増加です。その96%が血液透析、3.6%が腹膜透析で生命維持されています。腎移植は、当時で年間700人程度2007年現在でもやっと年間1000人を超えたところです。日本人の、身体に対する考え方そのものから発している所以です。それならば、腎移植に負けない腎不全医療をめざそうと考え始めました。腎不全の患者さんと共に歩む事を教えてくださったのは、飛田美穂先生でした。栄養士の藤井穂波さんと一緒に栄養面を、血液透析そのものは田中進一技士と一緒に、理解の悪い子供に優秀な家庭教師を付けるように指導して頂きました。自分自身の方向性が決まると東海大学と言うところは、みんなが協力してくれる場所でした。腎機能評価法に興味があると言えば、医学部1年の時の懇話会の担当をして頂いた核医学の鈴木 豊教授が一緒に、新たな腎機能評価法の開発をしてくださいました。その方法を用いて「2腎ある腎臓の1腎が機能しなくなると翌日には、対側の腎機能の代償が始まる」と言うことを見つけました。結局は、それが学位の仕事につながったのです。私が、卒後20年目も、大学にいられるのは鈴木 豊先生のせい・・・おかげだと思います。その後腎不全合併症である二次性副甲状腺機能亢進症、特に治療法に興味がわきました。骨変形を起こして全身に痛みのある患者さんが多かったのです。現在では心血管合併症の引鉄になると言うことで注目されています。当時は1施設でしか行われていなかった副甲状腺へのエタノール注入(PEIT)と副甲状腺摘出術とを指導してくださったのは、乳腺、内分泌外科の久保田光博先生でした。他科の私に辛抱強くPEITそして手術とつきあってくださいました。私には、とてもあのような指導は出来ないと振り返ります。なんとか、副甲状腺の手術がまともに出来るようになった頃、私の人生の中に斎藤 明教授が登場したのです。斎藤 明先生は腎不全医療の中では自分の意志を貫き通すこととマンネリズムを嫌うことで有名な先生で、透析医学会の理事長を務められた方です。温室の中にいた私に冷水を浴びせ志を説き始めたのです。(1)目標は高く、(2)その目標は、地位や金ではいけない、(3)自分の志を目標にする。と熱く指導してくださいました。時には、殴られたこともありました(言うと怒る)。松前重義先生の「汝の希望を星につなげ」と同じような意味合いだと思っています。今回、准教授にして頂いて私の大学人生を振り返りながらこれを書き始めました。たくさんの方々にまるで自分の意志がないように思えるくらい導かれてきたと考えます。もちろん、たくさんの患者さんも私の師匠です。休みの土曜日にもかかわらず一生懸命働いている後輩達を見て、自分がしてもらったように、彼らに返すことが出来るのか少し不安な気持ちになりながら、私の志「日本の腎不全医療に責任を持つ」を携えてこれからもこの道を歩んでいこうと思います。




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