星医会 東海大学医学部同窓会
 
 会報(第39号)
 〜平成20年9月1日発行〜


◆訃報◆
尾崎恭輔先生を偲んで
小さな大親分
岡本 裕一(1期生)

 元病院管理学教授 尾崎恭輔先生が平成19年12月24日に永眠されました。81歳でした。
 私と尾崎恭輔先生とのはじまりは、卒業時の研修医募集で「病院管理学教室」が臨床研修医を募集しているとのことで、少々、疑問病院管理が臨床なのか)と不安?も有りましたが、研修医希望を出しました。するとすぐに当時の学務課掲示板に私を呼出す札があり、行き先は副院長室でした。(当時、尾崎先生は付属病院副院長でした。)副院長室へ面接に行って初めて尾崎恭輔先生と話をしました。もともと私は、大学へあまり行かない方だったので・・・ここで初めて「病院管理学教室」「尾崎恭輔先生」「副院長」が結びつきました。ここでの尾崎先生の開口一番は「君は、6年間よく低空飛行でここまで来たな。」といわれたことが印象的でした。また、当日、私の優秀な成績?!から「国試受かるまで君を待っているから」ともいわれていました。
 「病院管理学教室」は医学部開設とともに発足しました。私が、教室へ入ったときは、社会保険達人の塚田武治先生(故人)と渡邉一平先生(東海大学経営工学卒/現 広島国際大学 医療福祉学部・准教授)と研修医の私の4人世帯でした。「病院管理学教室」としては、平成2年まで臨床研医を採用しました。尾崎恭輔先生の持論で「医師は、何か専門を持たないといけない」ということでした。尾崎先生から私に臨床研修に行けといわれましたが、外来診療、もちろん病棟も持っていません。当然、「病院管理学教室」で、研修もできず、どこかの科の研修先を私に決めるようにいわれました。もう時効ですので書きますが、尾崎先生は研修先に「内科は、駄目」といわれました。その理由は、当時、内科が臓器別に6科あり、6人の教授に頭を下げに行くのが面倒だからというとでした。そんなわけで私の研修先は、学生時代成績が多少良かった「小児科」なら1人の教授に頭を下げれば良い、「小児科」は上から下まで全身を診られるという理由で最終的に「小児科」に決まりました。結局、私の研修先は尾崎先生の希望でした。
 その後に研修医師は、個人の希望で私が希望独自のローティションを組みました。「病院管理学教室」としては、平成2年まで臨床研修医を採用しました。
 尾崎恭輔先生の門下生の卒業生には1期生の私がにわか「小児科」、「整形外科」後に「結核予防会・WHO勤務」須知雅史(3期生)、「整形外科」長峰俊次(6期生)、「産婦人科」松山(米本)幸世(8期生)、「リハビリテーション科」福原寿弥(9期生)、教室が消滅前後(基礎系の地域保健学になったため臨床研修医を採用できなくなった。)に「内科」太田ルシヤ(12期生)、最初で最後の大学院生として吉岡惠美子先生(東邦大学医学部卒)がいましたが、教室編成変更等で病院管理学教室として大学院の卒業はできませんでした。この7人が東海大学での尾崎恭輔先生の弟子です。
 尾崎先生は小柄な体格でしたが豪快な性格で、非常に明るく元気で茶目っ気があり、いたずら好きでした。ヘビースモーカー? チェーンスモーカーでしたが、なぜかお酒が飲めないという先生でした。
 尾崎先生のエピソードとして、教室から突然いなくなり教室員で探していたら実は「あゆ釣り」へ行っていたり、暇な時期に「花見」に行くといい出して教室員で買い出しをして大山や丹沢の花見に行きました。また、地方での学会へ行って会場そばの橋の上から釣りをしていたり、会場そばのパチンコ屋で会ったりしました。先生の武勇伝は数知れずです。
 平成15年に退職され名誉教授となり、産業医として企業診療所勤務をされた後、持病の治療に専念されていました。晩年、まさかと思いましたがたばこも止められました。
 1期生の私から見ると医学部開設当時の教授・恩師は豪快でユニークな方が多かったと思います。その中でも恩師・尾崎恭輔先生のような先生を亡くしたことは大変に残念です。合掌。


春日 斉先生を偲んで
須知 雅史(3期生)

 多くの恩師が亡くなられる中、今年2月に春日斉先生の訃報に接したことは、私にとって大きな、そして悲しい出来事でした。今の私は、一臨床医としての毎日を送っておりますが、一昨年までの21年間は皆さんとは少し違った日々を送っておりました。その入り口を開いて下さったのが、春日先生でした。
 医学部5年の時、ネパールの結核医療で多大な貢献をされた岩村昇先生の講演を聴く機会を得ました。感銘を受けた私は国際協力を志し、そのためには公衆衛生学を学ぶことが大切だと考え、以前から学生実習などでお世話になっていた春日先生のもとを訪れました。医者として少しでも臨床の場を知っておくことが大事であるとご教示を受け、前期研修終了後に大学院を受験することとなりました。紆余曲折はありましたが、1985年4月に公衆衛生学教室に大学院生として加えて頂くことになりました。私は、当然2-3年は春日先生のもとで、公衆衛生学あるいは疫学の勉強をするものと考えていましたが、先生はいきなり「結核対策をやるか?寄生虫病対策をやるか?」とお聞きになりました。私は、漠然と国際協力のことは考えておりましたが、実際にどの病気と闘うのかは考えていませんでした。「ま、結核の方が対策に時間がかかっていいだろう」という先生のお考えのもと、入学して間もない4月末に東京の清瀬駅で待ち合わせ、結核予防会結核研究所を一緒に訪れました。
 春日先生は、本学にいらっしゃる前は当時の環境庁大気保全局長を務められた、いわゆる厚生官僚でした。戦後間もない頃に務められた所沢保健所長以来の人脈で、結核研究所名誉所長の島尾忠男先生をご紹介下さったのです。春日先生はそのご経験から、「実践」を大切にされていたと思います。研究室で学ぶより、まず現場に出よ。早い時期に海外に出て、現場の経験をしてこい。そして何より、国際協力をしたいという私の我が儘を聞いて下さったのです。それは先生ご自身が、ODAプロジェクトを通じて国際協力のご経験があり、素晴らしい理解者だったからだと思います。
 結核研究所での国際研修を終え、1986年2月から2年間の予定で、当時の北イエメンに結核対策専門家として派遣されることとなりました。出発の日、先生は京成スカイライナーの日暮里駅まで見送りに来て下さいました。厳しい先生でしたが、「ボス」と慕われ、いつもパイプをくわえて穏やかな笑顔とともにうなずかれている姿を、今も忘れられません。
 半年ほど任期を延長し、1988年9月に帰国、10月から大学院に復学してからは、先生の直接のご指導のもと、教室の主な仕事であった環境汚染の仕事をさせて頂きました。そして防疫とは、検疫とは、はたまた医療行政とはといった、先生のご経験に基づいた様々なお話を伺うことができました。上田哲著「根絶」にも出てくる、1961年のポリオ大流行の時の経験談は、感染症対策とは何か、その遂行のためにいかに情報が大切かなど、その後のフィリピンやWHOでの仕事に大いに参考になるものでした。エイズ、結核など新興・再興感染症が猛威をふるい、今また新型インフルエンザの脅威にさらされている時、先生ならどのようにお感じになり、お考えになるか、伺うことができないのが誠に残念です。
 私が結核対策の国際協力の道に入ることができたのも、素晴らしい諸先輩に教えを請うことができたのも、そして生きた感染症対策のお話を聞き自分で実践できたのも、ひとえに春日先生の寛容に満ちたご指導のお陰であったと、心より感謝する次第です。
 長女が生まれた時に、お祝いにブランディーを頂きました。それは娘が成人する時一緒に飲もうと、今も大切にとってあります。まだ3年ほどありますが、その時には春日先生を思い出しながら、私や私たち家族の国際協力の思い出を語りたいと楽しみにしております。
 春日斉先生のご冥福をお祈りし、追悼の辞とさせて頂きます。




▲ページのトップへ
←目次へ戻る
←会報のページへ戻る