星医会 東海大学医学部同窓会
 
 会報(第40号)
 〜平成21年3月1日発行〜


◆訃報◆
福田先生ありがとうございました。
岡本整形外科 岡本 仁志(1期生)

 整形外科教室に入局して以来、開業後もずっと先生にはお世話になりました。僕には上を見上げる人が年齢などに関係なく、多くの人がいます。特に福田先生は人生・医師生活の生き方を教えてくださった雲上の人でした。一番の思い出は、大磯病院立ち上げ時に先生の下で整形外科を研鑚していた時のことです。先生と外来でお話をした時に、医者というものは患者さんが教師であって、日々の臨床で疑問に思ったことや新しい発見をして時に、文献に戻って技術を発展させていくんだぞと言われたことがありました。この言葉は今も僕の医療を行っていく上での哲学になっています。大和市の学術会でご講演いただいた時、2次会で10名の整形外科医師が集まり、先生を中心として論議したことを思い出します。その時も「Patients are our best teachers」というお言葉をいただきました。先生の地域医療の考え方をも拝聴でき、私たち開業医も自分たちの立ち位置を考えさせられることとなりました。また出身校など関係なく私たち開業医にやさしく接していただき感謝します。もう先生から教えをいただくことはできなくなりましたが、僕なりに先生の臨床をする意志を地域に活かせていきたいと思います。天国から見ていてください。どうぞ安らかにお眠りください。本当にありがとうございました。


福田宏明先生を偲んで
東海大学スポーツ医科学研究所 中村 豊(1期生)

 整形外科が扱う運動器は“動き”があって存在意義が感じられる器官である。動くということはその個人の存在を示すことに他ならないが、福田先生が動かれる姿を見ることが出来なくなり無念としか言いようがありません。英語が堪能あった先生は我々に対して常に医者としてまた科学者として世界に目を向けるように指導されたように思えます。サッカー好きでスポーツマンであった先生の動きはいつも機敏で、我々の見習うべき溌剌とした動きをいつもされていました。学問とスポーツを高いレベルで実践されている姿は私にとっては手本であり憧れの存在でもありました。先生は以前から折に触れてご自身の体調のことは話されていましたので我々医局員には覚悟をして冷静に対処するようにとの最後の教えを込められた行動のように感じ取れました。私のなかでは福田先生の溌剌とした動きのイメージが強くあり、最後にお話をした際に“駅の階段を登るのが大変”とお話し下さったことはかなりの衝撃でした。今となってはその溌剌としたお姿を見ることは出来ませんが、長年にわたりご指導を頂いたことに深く感謝すると同時に先生がお示し下さった有形無形の教えを守り、人間の存在を示す“動き”の管理者として責務を果すことをお誓いします。


福田先生に感謝
中瀬古 二郎(1期生)

 先生への思いを馳せる時、頭の中にはいつの場面でも、先生の凛としたお姿が、走馬灯のように浮かんできます。蝶ネクタイに、眼鏡の奥の穏やかな眼差しは、いかにも慶應ボーイといった雰囲気を醸し出しておられました。余暇を利用して、ゴルフやテニスをご一緒した事がありましたが、とても私のような者が敵う相手ではありませんでした。
 医師として、と言うよりも、学者としての先生のご活躍は、後輩への良き指針となり、その教えは後世まで引き継がれていく事でしょう。
 海外での学会発表には、奥様がいつも同席され、厳しいチェックをされていたと聞き及んだ事があります。妥協を許さず、完璧を目指す先生の強いご意志が感じられるところです。
 また、先生には、私が病に倒れて以後、済生会平塚病院の院長を引き継いでいただき、大変お世話になりました。私の仕事復帰に際しても、院長としての重責を慮り、体調を考慮下さって、復帰先を陰ながらご尽力いただいた事に、心より感謝申し上げる次第です。
「あんさん、早く元気になって、元に戻れるよう頑張れ!」と、叱咤激励される先生の声が聞こえて来るような気がします。
 生涯現役を貫かれた先生に敬意を表し、感謝を込めて、ご冥福を心よりお祈り申し上げます。



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生涯現役
済生会平塚病院 院長 武内 典夫(5期生)

 済生会平塚病院の前院長で、2008年9月30日に亡くなるまで当院顧問であった福田宏明先生のご病気の転移が判明したのは2007年10月1日でありました。
 当院の職員定期健診で胸部写真を撮られた際の事で、先生はすぐにCTも撮り、それらのコピーを持って、3年前に手術をされた東大病院に向かわれました。
 その際の精査では、肺、肋骨、脊椎への転移が見つかり、直ちに入院化学療法が開始されましたが、先生は「もって(2007年)年末までだろうな。」と覚悟をされ、海外の所属学会へご自身で自分の死亡記事を書いて送るなど、身辺整理を急がれておりました。そのひとつとして、2008年10月に24年間住まわれた茅ヶ崎市から、東京へ転居する計画を立てられました。
 幸い2008年を向かえ春になると、ご自身の最期について、「僕の理想は生涯現役ですよ。」と言及される様になりました。当時、先生は当院にて週2日外来を担当されておりましたが、5月頃には「10月に東京に引っ越すから、この体で東京から通うのもどうかと思うので、済生会にお世話になるのも9月末までとしたい。」と述べられ、9月末で医師としての現役引退を決断されました。
 病状は、手術をされた東大、東海大学東京病院の桑平先生、茅ヶ崎市で開業されている内山先生に管理して頂いておりましたが、化学療法5クール目の2008年7月5日には、ご自身で“langsam aber immer progressive”と判断され化学療法の継続を断り、その後は神の思し召しに従う姿勢を取られました。
 この頃から、両下肢の麻痺が進行し車椅子生活となり、酸素吸入も要する容態となりました。
 それでも外来日は、車椅子に酸素ボンベを取り付け、酸素吸入をしながら外来診療をこなしておりました。幸い頭と上肢は健全だったので、診察とカルテ記入はかろうじて可能でありました。
 2008年9月24日に現役最期の外来診療を朝から夕方まで行い、その後職員に対して退職記念講演『一病息災』のお話しをして下さいました。リクライニング車椅子で酸素吸入をしながらの荘厳な講演に、一同息を潜めて拝聴致しました。
 その2日後の9月26日に東海大学東京病院に緊急入院となり、転移発覚から丁度1年後の9月30日に神のもとに召されました。
 後日、私は東京病院入院時の画像を拝見し絶句した次第です。両肺野は無数の転移巣で占拠され、胸骨、肋骨、脊柱(T10〜S1)、骨盤、股関節、大腿骨などにも大きな転移破壊像が認められました。
 この末期状態で、診療行為を継続されていたとはとても信じられず、福田先生の診療への気力、気迫、患者さんへの想いの一途、まさに執念で生涯現役を貫徹されました。
合掌。


稀覯『福田文庫』見参
早稲田医療技術専門学校 学校長 山田 成(7期生)

 本職の勤務先は, 学生総数610名の医療系の専門学校であり, 専門書籍1万冊余の図書館を擁している。その館内の一番奥に, 東海大学伊勢原分館に存する武見文庫の向うを張って, 『福田文庫』が鎮座している。その棚には, 福田先生が初代 医学部付属大磯病院長時代に同院図書館に一旦寄贈された製本雑誌から, 教授御自身の全手術記録に至るまで, さらには茅ヶ崎の御自宅に置かれていた福沢諭吉全集・寺田寅彦全集さえも, 個人蔵書の大半を寄贈図書として大切に保管している。希望する学生の閲覧は可能であるが, 散逸防止の厳命から, 唯一閉架式書庫となっている。感性の世界に浸るものの, 生前に大恩を受けた者として, それ等の全背表紙を前に佇むと, 知性豊かな福田教授の面影が仄かに視えてくる。同時に, 現在, 図書館で勤しむ学生達をも, そっと看護っているのであろう。
 毎朝, 学舎内巡視の終着点が図書館であり, 拳先で福田文庫のガラス戸をコツコツコツと3回響く叩打音から, 『愉快・満足・感謝』の息吹を反芻すると同時に, その日戦う『血潮の騒ぎ』を腕に充填している。教室退局後, 11年の間, 学校運営上, 困難な状況に陥った際, 福田先生御自身ならばどう判断されるかと沈思黙考することも度々であった。結局の処, 異なる業務内容に従事している私は, 不肖の弟子でありながらも, 生涯現役を貫き徹した福田宏明先生の生き様や精神性を, 雛型として, ささやかに模倣している。そして, 直接目視可能な集合体としての『福田文庫』とは, 本校の若き学生達に無形に語りかける永遠の存在なのであろう。さらに, 本校の卒業生が各地で医療従事者として, 多数社会参加され, 活躍した折には, この『福田文庫』の存在が, 医療の門から医学の高みの際に通じる濫觴に成らんことを冀っている。
    一粒の麦, 地に落ちて死なずば, 唯一にて在らん,
    もし死なば, 多くの果を結ぶべし。
               新約聖書 ヨハネ伝 第12章 24節
 2008年6月5日に, 病魔を圧して, 車椅子に乗りながら, 義肢装具学科の学生の待つ教室に講義に出かけていった御姿を鮮明な光景として記憶しています。
 福田宏明先生, 最後の最後まで, 良きお導きを本当にありがとうございました。御蔭様で, ここまで何とかやって来れました。私も, 最後の最後まで, 血を騒がせ, 闘ってみせます。


福田宏明先生からの手紙
内山 善康(14期生)

 Dear Dr. Yoshiyasu Uchiyama

 アンサン、今日は天気が良いね。雲一つ無い快晴だよ。
 あれ? ずいぶんびっくりさせたようだね。
 僕は風の様に旅立って行くからと言っていただろう?
 あの夜は、家族と好物のアップルパイを頂きながら楽しく過ごしていたんだよ。
 笑ってね、本当に楽しかった。
 次の日に会う約束をしていたのに申し訳ない。私も楽しみにしていたのにな。

 そういえば、君にアンデルセンのサンドウッチを買って来てもらって食べたことがあったね。
 美味しい美味しいと、君があんまり早く食べるから、負けじとついつい釣られて
 1パックをペロリと平らげてしまった。実は後になって少し苦しかったよ(笑)。
 やはり紅茶は濃い目に入れたミルクティがあうね。僕は薄い紅茶が嫌いだから。
 バゲットのハムとチーズサンドは、ポンパドールも、美味しいから食べて見なさい。

 最近、僕のMacの調子が悪いんだ。
 5年使っていると言ったら君は大笑いするのだろうけれど、WordとExcel、
 Power pointが使えないと仕事にならないから困る。アンサン、Macは詳しいかい?
 11月に講演があるからよろしくたのむよ。Windowsは慣れないから。
 やはりMacでないと不自由だ。早く直しに来てくれないか?
 そうそう僕はアンサンに「生涯現役」と言っていただろう?
 やり遂げただろう! どうだい?
 もっともっと若い君たちが東海大学整形外科を大きくして行ってくれなければ困るよ。
 がんばってくれたまえ。

 ちょっと疲れたから、少し休むよ。後はよろしくたのんだよ。

 See you in the next world.
 
 福田 宏明 より


綺麗に晴れた青空から、突然こんな手紙が舞い降りて来る気がします。



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村井勇二先生を偲んで
寺師 良祐(4期生)

 昨日、お焼香を済ませに八丈島に行って参りました。
 羽田から40分。こんな近くに、
 こんなにも自然の豊かな場所が有るのですね。
 早すぎる友の死は、悲しいものです。
 残された家族の事を思うと、悲しい限りです。
 私と三木の二人で、村井さんのお見舞いに行ったのは、
 23日の昼過ぎでした。
 肝硬変の上に、その前日には脳内出血も起こし、
 ベットの脇に行った私達二人の事は
 分かる状態ではなさそうでした。
 でも… 後から病室に来た娘さんがベットの傍らに行くと、
 それまで無表情で苦しそうだった顔が、ニコリと微笑み、
 一瞬、その時だけはとても嬉しそうな笑顔になりました。
 この家族にも、数日もしくは数週間以内には、愛する人との永遠の別れが訪れるかと思うと、
 そして、その別れの瞬間の時の気持ちを考えると、とても居た堪れなくなりました。
 親しい人との別れは、どんな形にしろ辛く悲しいものです。
 それが、まして愛する愛しい人の死なら… 
 それから、十数時間後の事でした。彼が永眠したのは。
 しかし、せめてもの救いは、
 娘さんが来た時の彼の笑顔を見られたことです。
 生きている間の、
 この世での最後の笑顔では無いかと思うと、
 彼も、最後は家族に看取られて、
 安らかに息を引き取ったのではないかと思います。
 学生時代、仲の良い友達と
 六本木で飲んで踊っていた時の事が、
 今更ながら色々と思い出されます。
 そして、その時の友が居なくなるには、
 まだ、余りにも早過ぎます。
 人生 儚いものです。
 すべての人が 愛おしくなります。   合掌


斉藤素子先生を偲んで
佐藤 由紀(19期生)

 私達20生と斉藤素子さんの出会いは、医学部5年生の時でした。なんとなく仲良くなっていってモトピーと呼ぶようになっていました。モトピーの最初の印象は大きな口からみえる整った歯列で大笑いする先輩(どうやらひとつ上の学年にいらしたようですがわけあってちょっと寄り道したくなったようでした。)だなあと。そして忘れてならないのはビール。ビールならいくら飲んでも酔わない、つぶれないと言っていたのが印象的でした。
 そんなモトピーとの思い出を少し紹介します。とにかくがんばりやさんでした。目的に向かって一直線、テストの前には食堂で深夜まで何日も勉強しました。モトピーがいたから私も留年せずに卒業できたといってもいいくらいです。そしてモトピーは運動神経も抜群でした。一時期、(株)アンリツのバスケットボールのクラブにて毎週火曜、木曜と練習に参加していました(もちろん終わったあとは居酒屋でビール)。バスケの腕もかなり上手で、聞けば出身の秋田では、短距離でも県で上位であったと。恐れ入りました。同じ一人っ子でもこんなに芯の強く、家族おもいの人に会ったのは初めてでした。私に愚痴をいうことなんか全くなくて、いつも前向きであったのをおぼえてます。
 そうこうしているうちに、私達は6年に無事進級、自分達に進級祝いといって、ハワイ(もちろんバイト代と貯金をきりくずして)の海でビールをひたすら飲んだこともありました。モトピーはビールのほかにも海も大好きでした。
 卒業してからは第1外科を選択し、毎日7Fのタコ部屋(通称 女医部屋)でほとんど寝泊まりしていました。それでもつらいなんて事は言わず、頭が下がる思いでした。その頃からなかなか一緒に飲みに行くことも少なくなり、大阪の方の病院に就職をしたと風の噂で知りました。携帯に電話しようか、と迷いましたが連絡がないのが元気な証拠かな?と思いそのままになっていました。
 ある時、同期の藤田(旧姓 長谷川)美和ちゃんから『モトピーが海で事故に遭ったみたい』と連絡がありました。信じることができませんでした。今でもモトピーにかぎってと疑いたくなります。
 去年の11月16日モトピーのお別れ会に行ってきました。モトピーの小さい頃のエピソードの中から、とても家族思いで、その家族を喜ばせたい一心でなんにでも全力投球していたのがうかがえました。聞くと大阪である程度技術を身につけたあとは、ご家族を呼んで沖縄で過ごしたいと夢を語っていたとのこと。夢に向かって前に進むことが出来なくなってきっと無念で仕方がない思いでしょう。きっと天国から『代わりにお願いできる?』ってモトピーが言っているような気がします。きっと今頃モトピーは、一緒に行ったハワイ沖にいるのかな。慎んで御冥福をおいのりします。




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