星医会 東海大学医学部同窓会
 
 会報(第41号)
 〜平成21年9月1日発行〜


卒業生の学内教授誕生

教授に就任して
基礎医学系生体構造機能学 教授 坂部 貢(3期生)

 星医会の皆さんこんにちは。本年7月1日付で、基礎医学系生体構造機能学領域に赴任いたしました。よろしくお願いいたします。実は、前任地の北里大学教授に就任した際も書かせて頂きましたので、このコーナーに登場するのは2回目です。恐らくこのコーナーに2回登場したのは、私が初めてではないかと思います。平成5年に、本学形態学部門の助教授に昇格した際も書きましたので、そのコーナーも含めると3回目というレアなケースです。バックナンバーを見て頂ければ幸いです。今回書くことがかなり省けます。
 さて、本学の卒業生にとって、他大学の教授に就任することはそんなに簡単なことではありません。ある意味では大変誇れることだと思いますが、やはり母校の教授になって後輩の育成に手を貸すこと、これには別段の意味があるように思います。“Tokai Shares !”「東海大学を皆さんと分かち合おう!」というところから、母校の教授としての第一歩を進めたいと思います。
 前置きはこのくらいにしておいて、まず教育に対する私の基本的な考え方を述べたいと思います。教育というのは、「学生さんに変化が生じないといけない」、即ち、私が主として担当させていただく解剖学・組織学の講義・実習の前後で何が変わったか? 学生さんに変化が生じない講義・実習は教育ではありません。学生さんは教員に解剖学を通して何を期待しているのか? 私たちが学生さんに期待をするのでななく、私たちが期待されていることを忘れてはいけません。それが教員のmotivationの向上に繋がると認識しています。具体的には、解剖学・組織学教育を通じて、学生さんに「ものの形の意味」を思考させること、これが学生さんの「知的好奇心」を高揚させます。「知的好奇心」を高揚させてくれる人、これが正に学生が期待している教員の姿だと思います。「ものにはすべて形があり、それを裏付ける機能が存在する」 →「正しいことが何かわからないと、悪いことが何か判断できない」→「正常構造を十分に理解して初めて異常が理解できる」、これを中途半端に通り過ぎると一流の医師にはなれません。また、解剖学実習は、人そのものを解剖しているという事実、大前提として人の死があるということ、「生命の意味」について深く考える絶好の機会でもあります。これもまた中途半端に通り過ぎると一流の人間にはなれません。このように解剖学教育は、将来の医療人としての質を決定的にする要素を数多く含んでいます。このことを謙虚に受け止め、後輩の育成に力を注ぎたいと思います。
 次に最近の研究について簡単に述べたいと思います。昔の研究について知りたい方は、過去の医学部年報をご覧ください。「変化は科学の命題」です。ここで過去の研究について述べてもそれほど大きな意味はありません。大項目としての研究分野は、「環境生命医学」ですが、これは歴史的・学問的に発生学と深い繋がりがあります。皮肉にも催奇形性環境因子の作用メカニズムに関する研究が、発生学の発展に大きく寄与したからです。その中でも、1)有害環境化学物質によるメタロチオネイン誘導の新しい機構に関する研究(J. Pharmacol. Exp. Ther. 320, 2007,; Am.J. Physiol. Gastrointest. Liver Physiol.294, 2008)、2)大腸菌における新しい重金属トランスポーターの機能に関する研究(FEBS Letters 583, 2009)、3)化学物質不耐性評価に関する研究(Psychosoma. Med. 67, 2005; Environ. Health Prev. Med. Online, 2009)等が、ここ数年エネルギーを注いでいる研究内容で、その多くは前任地の私の研究室における若い力の賜物です。本学に就任後も「若い力」の発掘にアンテナを張りながら、社会貢献できるような研究成果をあげたいと思います。
 私が前任地の「若い力」に口癖のように言っていたセリフをいくつかご紹介しましょう。
「研究は、オンリーワンを目指すべきだよ。」「この分野のことは、彼に聞け、彼に話してもらえ、と声のかかるような研究者になりなさい。」
そして「教育は、ベストワンを目指すべきだ。他の教員のモデルになるような教育者を目指しなさい。」結局このセリフは、自分自身の激励のために言っていたのです。今後少しでも近づきたいものです。
 最後に一言、
 We are Tokai
 Live it !
 Express it !
 Expand it !


汝の希望を星につなげ
外科学系形成外科学 教授 宮坂 宗男(1期生)

 2009年4月1日付けで外科学系形成外科教授を拝命いたしました。
外科系医師にとって大切なことは、若いうちに如何に多くの手術現場を体験するかと言うことです。特に形成外科分野の手術には定型的な手術が少なく、応用力が試されることがしばしばです。私がいつも若手医師に申していることは、豊富な臨床経験を基にできるだけ多くの弾(手技)を持てと言うことです。そういった意味では、手術室は戦場と心得ております。私自身、過去に東海大学病院のみならず国立がんセンター、国立栃木病院、浜松赤十字病院、川崎市立病院、いわき共立病院や警友病院などで数多くの再建手術に関わることができたことにより、現在の私があると考えています。
 さて私は1980年に東海大学医学部1期生として形成外科に入局いたしました。当時の形成外科は、長田教授、谷野助教授(元病院長)、ナロン講師(元タイレーザ医学会会長)、鈴木助手(元松戸歯学部教授)がおられました。私が形成外科を選択した理由は、「近代外科医の父」といわれているアンブロアス・パレの伝記を読んだことがその理由の一つであります。「外科医の喜びは挑戦することから生じ、挑戦の主要な意義は驚異的な作業を自分の頭ですることにある。せっかくの知性を備えていても、優れた技術がなければプロフェッショナルとして患者の治療にあたることはできない。手のほうが頭脳の要求する仕事を充分にこなせなければ、外科医は外科医でなくなる。外科医が優しさをこめて仕事を遂行できなければ、それは治療者(医者)でない。ーーーー」ということでGentleな長田先生、谷野先生のいる形成外科を選択しました。当時他大学と違い入局しても現在のスーパーローテート方式がとられていましたので一般外科、麻酔科、心臓外科、脳神経外科、形成外科を2年間でローテートいたしました。3年目からは、医局の方針で東海大学以外の施設で外科か整形外科を研修することが義務づけられていました。私は脳神経外科の佐藤教授の計らいで浜松遠州病院に出向いたしました。当時の浜松遠州病院は名古屋大学出身者の多い病院でした。この病院で一般外科と整形外科2年間の出向を終えた後、形成外科の医局にもどりました。まず与えられたテーマがアザのレーザー治療とレーザー器機の開発でした。私が学士入学であり年齢がいっていましたので手術手技を習得するのは難しいとの配慮からであったのかもしれません。アザのレーザー治療で鍛えられたのは忍耐の一字につきましたが、レーザーを通じて多くの方に出会えたこと、海外での学会発表、講習会への参加、手術見学などを自由にさせていただき感謝しております。1986年に初めて米国レーザー医学会での学会発表をしてから毎年1回は海外に行くことを目標としてきました。海外の学会発表のおり、同級生の松本先生(南カリフォルニア大学)また飯田先生(ミュンヘン大学)の留学先にまでおしかけたことが懐かしく思い出されます。1989年よりマイクロサージャリーによる再建手術をはじめましたが、多くの症例を口腔外科、耳鼻科、整形外科、脳神経外科、一般外科の先生からご紹介していただき感謝しております。私の趣味は、登山、読書、酒です。登山をするのは、ある意味での達成感を簡単に味わうことができる
からです。登山をしていて「人は寝るのに、どれだけの土地がいるのか」という廃刊になったアルプという山系雑誌に書かれていた言葉が常に脳裏に思い浮かびます。一期一会を大切にし、常に感謝の念を持つことがモチベーションを維持するのに必要なことだと思います。私の今までの人生は「手術を楽しませてもらった」の一言に総括できると思っています。形成外科は、主に患者さんのQOLを高めることを目的とした医療です。一方で近年における医療の発展はめざましく、ヒト遺伝子の解明や再生医療の発展に伴い、外科的疾患の治療方法も大きく変革せざるを得ない時代へ発展していくと思われます。若手医師は臨床能力を高めるとともに、このような基礎医学知識を蓄えることにより、お互いに情報を交換し、本音で議論を戦わせることにより切磋琢磨し、新しいことに対して積極的に楽しくチャレンジできるような環境を醸成したいと思います。今後は若手医師に、医師としてのあり方を医療現場の中で教えて行くことに時間を費やすともに、伊勢原という場所からも世界に向けて何か新しいことが発信できる東海大学形成外科を育てて行きたいと思います。今後とも皆様のご指導、ご協力を御願い申し上げます。



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教授に昇格して
外科学系泌尿器科学教授 宮北 英司(2期生)

 2008年4月1日付けで寺地敏郎教授のご推挙を得て、外科学系泌尿器科学教授を拝命いたしました。
 私は、昭和51年に東海大学医学部2期生として入学して以来、研修医、医学研究科を含めて、東海大学にお世話になっております。私の泌尿器科との出会いは、大越正秋名誉教授、河村信夫名誉教授との出会いであることは言うまでもなく、その後お誘いを受けて泌尿器科医を志しました。泌尿器科は、外科学の一部であることは明白ですが、内分泌疾患、感染症など一部内科的な要素もある科です。また、疾患そのものが明解で、私にあっていたように思います。当時の泌尿器科の研修は当院外科と同じようにチーフレジデント制で忙しい毎日を過ごしましたが、他施設では経験できない位の多数の症例の手術の執刀をさせていただきました。私事になりますが、今年東海大学医学部を卒業した長男が、たまたま早く家に帰ることが出来たときに、病院から患者の急変であったか覚えていませんが、“パパ、病院に帰っちゃうの?”と言われたのを思い出します。今は本人も当時の私の事情が良く理解できるものと思います。臨床では、当時、河村教授、木下英親助教授、岡田敬司助教授、勝岡洋治助教授(現大阪医大泌尿器科教授)に沢山の事を楽しくご教授いただきました。それと同時に勝岡先生には、大学にいる人間には研究をすることの大切さを常に教わりました。
 研究に関する出会いは、Dublin大学Children's Research Centreに留学し、Prem PURI教授にお世話になったのが、今日の私の基盤になっております。留学する6か月前から東海大学文学部の米国人の先生に付き、英会話を習い準備万端で臨んだDublinでしたが、アクセントの違いから、当初20~30%位しか、話の内容が理解できず苦労しましたが、PURI教授は常にゆっくりと話をして頂きました。Labo.では免疫学のREEN教授、病理学の O'Brian教授にお世話になりながら、膀胱尿管逆流症に伴う逆流性腎症の研究をし、欧州、米国などで多数の発表をすることが出来ました。PURI教授はResearch CentreのDirectorと3病院のconsultant doctorを兼ねていたため、臨床のカンファレンス、手術にも参加することが出来ました。その中で、PURI教授は膀胱尿管逆流症に対する内視鏡的注入による逆流防止術を開発したため、これを直に学ぶことが出来、帰国したら是非日本でも施行したいと興奮した覚えがあります。現在、私が主に小児泌尿器科に携わるのはこれらのことが大きく関与しております。Dublinでの生活は、私の子供とPURI教授の子供が同じ学校へ行っていたため(PURI教授が勝手に私のこどもたちの学校を決めたのですが)、ご家族とも仲良くさせていただきました。現在でもその関係が継続できていることは私たち家族にとって貴重な財産でもあります。
 現在、東海大学医学部付属大磯病院で病院業務をいたしております。同時に岡義範院長を補佐する役として副院長も拝命し、医療安全対策室長を担当しております。大磯病院は、伊勢原の本院とは多少色合いが異なり、大学病院ではありますが平塚、大磯、二宮の地域の中核病院の役割もあります。ここでは、同級生の外科大谷泰雄准教授(副院長)、産婦人科村上優准教授も勤務しており、コンパクトである分、蜜に連携がとれフットワークのよい医療が提供できる場になっております。
 今後私がするべきことは、東海大学医学部の発展に寄与できるよう、大磯病院がさらに発展するように頑張りたいと思います。日本中の東海大学出身者が誇りを持っていけるよう、臨床・研究・教育に邁進したいと思いますので、今後ともご指導・ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。


「島津奔る」に思うこと
専門診療学系リハビリテーション科学 教授
医学部付属大磯病院 副院長 豊倉 穣(5期生)


 本年4月1日をもって医学部専門診療学系リハビリテーション科学教授、付属大磯病院副院長を拝命しました。医学部新入生から始まり、医師新人としての研修医、教員新人としての助教と多くの「新人」体験を経てきましたが、今回は教授、副院長としてその責任の重さを痛感しています。大学に残ったOBの務めとして、東海大学の発展に貢献できるよう努力する所存です。今後ともよろしくお願い申し上げます。同期卒業生は既に多くが東海大学を離れ、他大学を含む各地の第一線で活躍のことと思います。東海大学医学部卒業生の更なる活躍と実りある将来を祈っております。
 さて、医学部在学中の6年間を含むと東海大学の門をくぐって30年が過ぎました。大磯病院の勤務(3回目の赴任)も今年で13年目になります。実は、私の卒業と大磯病院の開院は同じ1984年です。卒業=開院の年に3ヶ月間ローテーションし、多くの臨床業務を初体験しました。今でも当時の研修医時代をよく思い出します:◇未開床の病棟個室が研修医宿舎だった、◇退院サマリーは患者用ベッドのオーバーテーブルで書いた、◇「せめて病棟に洗濯機がほしい」と我儘を言ったら、初代福田院長が快く買ってくださった、◇(院内で寝起きしていたから当然だが)「救急手伝ってくれ!」「CPR頼む!」と毎日当直しているような生活だった(ただし当直料はなし)、◇「先生、ちょうどよかった!」と日曜日に外科系の先生から声をかけられると、その後の数時間は手術室で助手を務めることを意味していた・・・。まるで野戦病院のごとくですが、きつい半面、楽しく、充実した生活でした。何でも見てやろう、やってやろうと気負い込んでいたのを覚えています。この機会にもう一度昔の自分を思い出し、学生や若い研修医がワクワクするような教育、臨床の場が提供できればと考えています。
 話は変わります。大河ドラマの影響か、最近は「戦国ブーム」です。若い女性ファンや戦国グッズの専門店もみられます。確かにその時代には、歴史に名を残す多くの逸材が登場しました。しかし勇将、知将と言われた彼らの多くは決して「戦上手」「知恵者」だけではないのです。戦国時代の主従関係は江戸時代とは異なり、もっと現実的でした。命を捨てて仕える価値がある人間か、上に立つ者の人格、人間性は厳しく問われました。秀吉の命を受け、朝鮮で大活躍した島津義弘の例をあげましょう。義弘は10倍もの敵軍を見事に打ち砕き、日本軍の退路を築いた名高い猛将です。関が原合戦の前、義弘は主に外交担当として伏見の島津屋敷に詰めていました。国元には、兄であり領主の義久が健在で、内政、軍事、経済の全てを仕切っていました。大戦の気配がただよう中、渦中の義弘は何度も国許の義久に援兵を要請しましたが、「薩摩のお家安泰が第一」と願いは聞き入れられませでした。ところが、義弘の窮地を知った領民は「殿の危機!」とばかりに体ひとつで薩摩からの300里を踏破して伏見に馳せ参じたのです。義久の主命に背くこの行為は反逆罪とされ、路銀も僅かの出立には決死の覚悟が必要でした。ところが、途中の他国領地では「島津奔る! 非理非道を常とする戦国の世にあって類をみない美談」と噂が広がり、庶民の人気は爆発し、感動が沸騰しました。そして、我が身を省みず何と100名もの領民が集結したと言われています。
 勇猛神のごとしと言われた戦国武将、義弘の威徳のルーツは「他を思い、自を律す心」にあると言えましょう。相手の立場を考え共感の気持ちを忘れない暖かさ、そして欲に惑わされずに自己を律する厳格さが、義弘をしてその人格を築いたものと思います。「さて、ならば」とわが身を振り返れば恥ずかしい限りです。身分、肩書きとは関係なく、一人の人間としてまだまだ成長せねばと思う次第です。



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伊勢原を揺籃の地として
外科学系呼吸器外科学教授 岩ア 正之(5期生)

 伊勢原を揺籃の地と決め30年が経ちました。2009年7月1日付けで、東海大学医学部外科学系教授を拝命致しました岩ア正之です。どうぞ宜しくお願い致します。ここに至るにあたりお世話になったすべての諸兄・諸先輩の皆様に感謝申し上げます。私が今までに様々な薫陶を受けた恩師に感謝をしながら一言挨拶をさせていただきたいと存じます。
『一例、一例を大切にしなさい。異常を診過ごしては行けない。』これは、外科学1名誉教授 故正津 晃先生が回診の度によく話されていた言葉です。私はいつもこの医師としての心構えを胸の中で繰り返しながら今まで患者さんと接して来ました。ごく当たり前の教えではありますが、研修を始めた頃の私にとっては非常に重みのある一言であり、以後の私の教育、研究、診療に置ける姿勢の礎になりました。かつて、笹本 浩初代病院長は、『大学病院の使命は、教育、研究、診療を広めることにある。そしてこの順に重要であり、けっして順序をかえてはならない。』と話されていました。正津先生も教育を第一に考えられ、教育の方略やタイミングなどを良くご指導いただきました。時代は四半世紀と移りましたが、もちろん今でも大学病院の使命は変わりません。ただ、それぞれの重み付けは大きく変わって来ました。私自身でも時間を感じる感覚は、昔とは比べ物にならないほど短くなりました。医療だけでなく私たちは様々な場面で周囲の状況を把握しながら瞬時に対応し変わらざるを得ないことを求められています。それでもなお、正津先生の説かれた『教育の重要さ』は普遍です。次に私の外科医としてのあり方をご指導いただいたのは川田志明慶応義塾大学名誉教授と小出司郎策名誉教授でした。川田先生からは『外科は芸術である。』という事がいかなるものかと言う事を教えられました。外科(手術)を芸術とする考えは、きわめて高い志ではありますが今なお私たちに残された課題であり、自分の未熟さに日々痛感させられております。小出先生には外科医に必要な事は『忍耐と優しさである。』と説かれました。小出先生とは24時間ほぼ一緒にいるという毎日でしたが、この時の経験から、今まで私が内視鏡(胸腔鏡)外科手術を開発して来た様々な場面に大きなヒントを与えられたと感謝しております。来る日も来る日も、急性大動脈解離と戦っていたあの時のあまりの忙しさに我を忘れ自己陶酔してしまっている自分に快感を覚えたこともありました。われわれ外科医には、直感的な野性的な感性を身につける事が重要です。忙しい中に我が身を置いて的確に判断して行く経験は、医学を志す者であれば誰も(特に外科医)が一生に一度は経験した方がいい研修であると信じます。(残念ながら忙しい科は好まれませんが、、、)そして最後に井上宏司名誉教授から学問の厳しさと一貫した態度こそすべての基本である事を教えられました。
 様々な特筆すべき恩師の方々の導きで、縁あって伊勢原に奉職させていただけることになりました。私の役目は、先人たちの教えを後輩に伝え新しい医療体制の確立をめざすことです。自由な研究環境の構築、常に難題に挑戦していく姿勢、そして温かい教室作りに努めて行きたいと思います。
 この30年間に、諸先輩が華々しく活躍され私たちに教育を施され多くの同胞を残してくださいました。過去と現在に自信を持ち更なる将来に向け皆様と共に東海大学のために邁進して行きたいと思います。誰もが揺籃の地と思えるような伊勢原にして行こうではありませんか。星医会の皆樣方には是非とも、ご指導ご鞭撻を賜りたいと存じます。どうぞ宜しくお願い申し上げます。


「新任教授からひとこと」星医会へのご挨拶
東京医科大学八王子医療センター眼科学 教授 田中 孝男(5期生)

 平素は同窓の諸先生方、ならびに大学関係者の方々には大変にお世話になっており、感謝を申し上げます。このたび東京医科大学八王子医療センター眼科教授を拝命し、その責務を痛感しております。昭和59年春東海大医学部を卒業、6月から東京医科大学で松尾治亘教授が主宰されていた眼科学教室に入局を許され、多くの先生のご指導を賜り今日に至っています。   
 学生時代の自分は、友人たちのおかげで国試に合格できた有様で、褒められた学生ではありませんでした。当時、早々に故郷への引き上げを考えていた自分を顧みると、こうして教職に就いている自分を不思議に思います。初期研修医として務める傍ら臼井正彦助教授(後の主任教授、現学長)の実験的自己免疫性ぶどう膜網膜炎の研究に参加させていただき、眼科学と人生の「いろは」をご指導いただきました。昼間、外来病棟手術室と臨床を学び、夜は研究室で過ごすなかで、先輩がフランスから持ち帰ったものの、注目されずにいた網膜A抗原でラットに網膜ぶどう膜炎が惹起されることを確かめました。その抗原は光伝達に関与する糖蛋白で種々の網膜遺伝性疾患に関与するとして注目され始めたIRBPという物質と同一だった事も解りました。幸運にも、ちょうどIRBPの機能や種々の疾患の関連をアメリカ合衆国、国立衛生研究所(NIH)が探り始めた時期でした。
 昭和61年春、国立眼研究所(NEI)のDr. Nussenblattに東大でお目にかかったおり、生意気にも研究経過とその蛋白がベーチェット病などの疾患にいかに関与するかを調べる予定であると告げたところ、「いつ来る?」と聞かれ、2週間後にNIHからのJ-1、VISAの申請書をいただき、夏には渡米したのでした。出来の悪かった自分には夢のような展開でした。免疫学者でInterleukinの発見の礎を築いた(Lymphocytes Activating Factorの発見者)Igal Gery博士にNEIで眼免疫を師事したのですが、ラボは、極めて強烈な個性をもつユダヤ系研究者達がリードする世界でした。英語も喋れなかった自分は、油断すると弾き飛ばされる競争に置かれ、2年間にわたり人生で最も勉強せざるを得ない時期を過ごしました。帰国後、仕事をベーチェット病の発症機構解明、ぶどう膜炎における薬剤感受性やそれを背景に行う選択的抗炎症療法の研究へと繋げてきましたが、教室の方針の下、実地臨床の場で研鑽を積む機会を長く与えられましたので、臨床医のみならず研究者としての思考や考え方も心がけられるようになったのではないかと思います。
 八王子医療センターは大学病院でありながら地域急性期医療の中核施設です。患者様は「安心、安全、納得の医療」を強く求めて受診されるので高い安全水準を保ちながら、心温まる医師患者関係を築きながらも無駄を省いた質の高い眼科医療を実現したいと考えています。教育面では医学生や大学院生、研修医のみならず薬剤師育成に関する東京薬科大学との連携事業も課され東京薬科大学の客員教授も拝命しています。単なる分院にとどまらず多機能な特色を明確にし、真摯な姿勢で教育に取り組み東京医科大学の職員として奉職いたします。
 今回の人事は、他学出身の自分を我が子同然に育ててくれた東京医科大学の諸先生方のお陰であることは言うまでも無いことですが、今まで一緒に働いてきてくれた若手の先生方、看護師、ORT、事務系のスタッフ、そして時に困った時、心優しく相談にのってくれた東海大学OB諸氏や友人のお陰です。この場で改めて感謝を申し上げます。躍進する東海大学に支えられて学ぶ学生諸君や星医会の若手の諸先生方が、人との出会いを大切にし、夢を描きながらコツコツ仕事をされ様々な医学の分野で活躍されて行く事を信じながら、東海大学と星医会の益々のご発展を祈願いたしております。



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卒業生の学内准教授誕生

今年は高橋若生先生(神経内科学:6期生)、中村健司先生(消化器外科学:8期生)、竹山和秀先生(麻酔科、9期生)、西海 昇先生(救命救急医学、9期生)、鈴木孝良先生(総合内科学:10期生)、金澤正浩先生(麻酔科、11期生)、佐藤文子先生(法医学:15期生)、梶原 博先生(病理診断学:16期生)が准教授に昇格されました。

研修医時代から今日までを振り返って 
内科学系神経内科学 高橋 若生(6期生)

 思い返せば今から20数年前、東京病院で研修医としての生活がスタートした。東京病院は消化器疾患の患者さんが多く、我々の仕事は主に注射や点滴番だった。採血も満足に出来なかった私は、先輩や同僚に助けられながらあくせく病棟を回った。病棟主任(ちょっとおばちゃんが入ったナース)から、“先生、今度来るときは一回り大きくなってきてね ? ”と言われる始末であった。
 その後、伊勢原での神経内科の研修が始まったが、ここでは篠原幸人教授のカンファレンスや回診をどう切り抜けるかが最大の関心事であった。プレゼンで曖昧なところがあると、決まって先生から突っ込まれた。大体、知識も経験もない研修医の説明などいい加減なものだが、それを叱ったりせず、“その診断はちょっとおかしんじゃないか?”“もしそれを疑うのなら、理由を説明してみろよ”などと言われ、再考を促すのだった。毎週カンファレンスが近づくと、この程度の内容では篠原先生は納得しないだろうなと考えるようになり、診断手順や治療に関して、他人にも説明し理解してもらえる内容であることを常に念頭に置くようになった。今思い返せば、これは篠原先生のご指導の賜物であったというほかはない。
 卒後7年目、出向していた友愛病院(現横浜市脳血管医療センター)から戻ってまもなく、向こうでpositron emission tomography(PET)の勉強をしてこいと篠原先生から言われた。その頃Xeを使った脳血流測定をしていた関係で核医学に対する多少の知識はあったものの、出発が近づくにつれ緊張から胃がシクシク痛んだのを憶えている。その年の初夏ドイツに渡り、短期間ではあったがマックスプランク研究所でDr. Heiss教授のご指導のもと脳血流やブドウ糖代謝の勉強をさせて頂いた。
 帰国して数年後、山中湖クリニックに出向した。ここはPETを含む様々な画像診断を用いた会員制の検診を行っている。初めは、健常者を調べても・・・と思ったが、何年かするうちに脳卒中や認知症を発症する者が現れた。発症の前年あるいはもっと前のデータを調べているうちに、さまざまな“前兆”とも呼べる異常がみられることがわかった。無症候性脳梗塞、白質病変、血管狭窄、ブドウ糖代謝の低下、等。それからは取り憑かれたように毎年学会に発表し、論文を書いた。今回准教授に昇格させて頂いたのも、主にこれらの業績を評価して頂いたものと思っている。
 立場上学生や研修医と接する機会が多いが、彼らと談笑していると“君は将来何科を志すの?”とつい尋ねてしまう。中にはすでに明確なビジョンを持った者もいるが、なかなか決められないという答えが大多数である。“先生はどうして神経内科にしたのですか?”と逆質問されることもあり、“う〜ん。神経学がおもしろそうだと思ったからだよ”などと曖昧な答えで逃げてしまう。自分がなぜ東海大学を志望し、神経内科を選んだのかよく解らないというのが本音だからである。ただ、最近になってある確信めいた思いが頭をよぎるようになった。
 私の祖父は田舎町の町長であったが、任期半ばで病に倒れた。おじいちゃんはあたった(方言で、脳卒中の意味)のだよと母親に聞かされたが、それ以後寝たきりになったのを子供ながらに覚えている。それからというもの、“あの病気さえなければ・・・”という言葉が母親の口癖となり、しばしば涙をこぼすのであった。今なら、何が起こったか手に取るようにわかる。祖父は不整脈があり、突然崩れるように倒れたこと、言葉が話せなくなったこと・・・。祖父は心房細動があり、心原性脳塞栓を発症した。閉塞部位は左中大脳動脈M1 portionで、大脳皮質を含む比較的広範なMCA領域に病巣が存在する。後遺症として右片麻痺と運動性失語を残した。t-PAはもちろん、まともな治療法のない時代である。満足な治療も受けられないまま肺炎を併発し、祖父は他界した。
 東海大学神経内科は、昨年度の脳梗塞の入院患者数、t-PA症例数ともに神奈川県の医療機関でトップであり、大学病院の中では全国で第3位である。医者を志すきっかけは、家族の病に直面し、自分が何とかしてあげたいと思ったからです・・・などと言うセリフをよく聞く。自分とは無縁の動機だなと思っていたが、気がついてみれば自分も同じ類だったのである。


准教授に昇格して(麻酔科との出会い)
外科学系麻酔科学 竹山 和秀(9期生)

 こんにちは。このたび東海大学外科学系麻酔科准教授を拝命致しました竹山和秀と申します。
 私の略歴を簡単に申し上げます。
 1988年3月:東海大学医学部卒業、1990年4月:麻酔科入局、1993年4月:麻酔科助手(現:助教)
 1993年4月〜1995年3月:平塚市民病院出向、1995年4月〜1997年3月:東海大学付属東京病院出向
 1997年4月〜1999年3月:東海大学付属病院(伊勢原)勤務、1999年4月〜2001年3月:池上総合病 院出向、2001年4月〜2005年3月:東海大学付属病院(伊勢原)勤務、2005年4月:麻酔科講師昇格
 →東海大学付属八王子病院出向、2009年4月:麻酔科准教授昇格→現在に至る。
 以上ですが、早いもので大学を卒業してから22年目になります。見てお気づきになったでしょうか。
私はほぼ2年毎に勤務先が変わっております。22年間の約半分が関連病院(いわゆるサテライト)勤務を送っていました。中小規模でアットホーム的な雰囲気のする病院勤務を望んでいたためかもしれません。
 卒業当初私は内科希望でした(麻酔科は全く考えていませんでした)。しかし内科ローテーションしているうちに自分は内科向きではないと思うようになり、外科的要素を含んでいる麻酔科をローテーション先として選択しました。ローテーションしてみると気管挿管、動脈ライン確保、中心静脈ライン挿入、硬膜外麻酔、脊椎麻酔(現:脊髄くも膜下麻酔)など様々な手技がある事に驚きました。私は気道確保が出来て小外科的な手技も出来る麻酔科を知りこの科だ! と思いました。これは学生(ポリクリ)時代に麻酔科を1、2週間ローテーションするだけではわからなかった事です。学生時代は麻酔の講義を受けた記憶さえも殆どありませんでしたが、いざ研修医としてローテーションすると学生時代とは全く違った印象を持ちました。私自身が感じた麻酔科の魅力は①小外科的手技(刺しもの)が出来る事。②薬剤(循環作動薬)投与や心臓内にカテーテル(CVやSwan-Ganz)を入れて循環管理が行える事。③勝負が比較的早い(手術時間によりますが)事だと思います。特に薬剤の投与により循環動態が瞬時に変化するのは魅力でした。私が入局した時は硬膜外麻酔の名人、山崎陽之介教授がいらっしゃいました。山崎陽之介教授からは麻酔の極意を教わりました。硬膜外麻酔がバッチリ効いた爽快感は今でも忘れられません。滝口 守前教授からは、挿管困難への対処法を教わりました。多くの先生方から様々な事を教えて戴きました。この場を借りてお礼申し上げます。どうも有難うございました。私が入局した頃に比べて、最近は入局者が増える傾向にあり毎年平均2、3人ずつ入局しています。(6人入局した学年もいます。)これは最近の外科系の人気低迷も影響しているかも知れませんが、鈴木利保現教授が率いる医局員の明るい雰囲気も学生や研修医に人気があるのかも知れません。私は現在付属八王子病院に勤務しています。今年の4月で5年目の勤務になります。東海大学付属八王子病院は開院6年目の新しい病院です。病床数は500床ですが、現在350床オープンしています。手術室は16部屋ありそのうち10部屋を使用しています。手術件数は年間約4,000件、そのうち麻酔管理件数は年間約2,400件です。一昨年までは八王子病院の麻酔科人数は4人でした。これは一人当たり年間約600件(=2,400/4)の麻酔を担当していた事になります。本院(伊勢原)と比較しますと、一人当たり約1.5倍の麻酔件数をこなしていた事になります。日々の多忙な麻酔管理に加えて学会活動、論文執筆、科研費取得が評価されてこのたび准教授に昇格させて戴いたと思っております。しかし私自身はまだ課題が多く発展途上だと思っています。一つ一つ課題を克服して精進していくつもりでおります。これからもどうぞ宜しくお願い致します。



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准教授に昇格して
専門診療学救命救急医学 西海 昇(9期生)

 猪口貞樹教授に推薦を賜り、救命救急医学の准教授に昇格致しました。私は、救命救急医学と呼吸器外科学の二領域にまたがる胸部外傷を担当しています。
 国試発表後間もなく、16歳男性のバイク外傷による大量血胸の患者さんの手術の助手として右肺下葉切除術を行い、独歩退院になりました。3日後別の16歳男性のバイク外傷の患者さんは、出血による台上死になりました。3年間の出向から帰室した時、気管支断裂の症例発表が2週間後に登録されていました。そしてこの胸部外傷が最初の和文報告になりました。気管支断裂症例を集計すると、研修医時代の血胸患者さんの診療録に再会しました。二人の胸部X線写真をシャーカステンで毎日見比べました。どちらも血胸により縦隔が健側に偏位する緊張性血胸(この表現は学会では認められてません)を呈していましたが、一方は気胸を伴い、もう一方は気胸がありません。肺葉切除で救命できた患者さんは気胸を伴った深在性肺裂創(肺破裂)で、気胸を伴わない症例は肺静脈(左房)裂傷であったと診断しました。出血部位と病態が違えば、手術術式が異なりますので、外傷では損傷部位と程度を瞬時に判断しなければなりません。当院の救命救急センターが開設した1989年以降の肺破裂と肺静脈裂傷のX線写真を毎日シェーマしました。肺破裂のX線写真の所見を、初めての英語論文にまとめ、2000年の米国胸部外科学会雑誌(Ann Thoracic Surg)に掲載されました。以後ATSに投稿した論文はなかなか採用されず、今日になり初論文の苦労を思い出します。
 井上宏司教授は1993年に「治療法に基づく胸部外傷分類」を提唱されました。しかし国内の救急診療では、診断分類を優先していました。2000年頃は、2号館の救急センターのCT台で気管挿管や心臓マッサージを行うなど、今から考えれば救命蘇生が不十分でした。ところが外傷における蘇生は、1997年に米国よりAdvanced Trauma Life Support (ATLS)が開示し、5年後の2002年に本邦より外傷初期診療 (Japan Advanced Trauma Evaluation an Care: JATEC)が示され、診断より蘇生を先行する概念が取り入れられ、井上教授の提唱に合致しました。ちょうど、私がユニベントを用いて胸部外傷に伴う気道出血の患者さんの救命に携わっていた頃です。今日では遭遇する機会は少ないですが、喉頭展開と同時に、喀血が顔に吹き出して来たことを思い出します。JATECの第2版(最新は3版)に、気道出血の治療法としてユニベントによる気管支閉塞が掲載されました。全国の救急センターにおいて、外傷患者に対するJATECの蘇生の指針が浸透し、年々救命率が向上しているのはご承知の通りです。しかし、ATLSやJATECにおける胸部外傷の指針は、銃創の引用が多く、私は鈍的胸部外傷の治療指針に矛盾を感じています。私の使命は、鈍的と鋭的外傷の診断と治療・手術指針を作成し、国内外で一人でも多くの外傷患者さんを救命可能にすることです。
 たまたま最初に接した患者さんが、私が胸部外傷に誘惑したのでしょう。星医会の先生方は、様々な施設において修練されると思います。自分が担当した患者さんから、診療の概念と技術の修得し、コミュニケーションと医療倫理を身につけて下さい。最後に星医会皆様の益々の御活躍と東海大学の発展に期待します。


准教授に昇格して
内科学系総合内科学 鈴木 孝良(10期生)

 このたび、消化器内科 峯徹哉教授、内科学系長 高木敦司教授のご推挙により内科学系准教授に昇格させていただきました。昇格にあたりご尽力いただきました伊勢原校舎本部長 幕内博康教授に御礼申し上げます。また昼夜を問わず診療、研究を共に行ってきた教室の先生方と消化器関連のコメディカルの方々に感謝申し上げます。私は10期生として東海大学医学部を卒業し、3年間の内科研修を行った後に、消化器内科を専攻しました。大学院では壁細胞研究グループに配属され、モルモット単離壁細胞(胃切除後に酵素処理して細胞単位にばらばらにする)を用いた酸分泌機構の研究を行いました。大学院を何とかギリギリ期間内に卒業できたのは、グループの大先輩である武藤先生、宮沢先生のサポートと的確なご助言、さらには薬理学 岡哲雄教授と消化器内科 三輪剛教授のご指導ご鞭撻をいただけたからと感謝しております。大学院卒業後はしばらく近隣の病院へ出向していましたが、三輪教授のご紹介によりミシガン大学に留学させていただきました。ミシガン大学消化器内科研究室はH2受容体のクローニング、壁細胞酸分泌機構、D細胞やG細胞を用いた研究で知られていました。留学中はJohn Del Valle先生のラボでイヌ単離胃細胞を用いた細胞内シグナル伝達を中心とした研究を行いました。研究室の雰囲気はいたって自由で各人はいくつかのプロジェクトの一部を担っていますが、自分のペースで1週間仕事をして、ベーグルとコーヒーを飲みながらのミーティングでその成果を発表するという具合でした。ミシガン大学は各国から多くの留学生を受け入れており、日本からは同じ研究棟だけでも昭和大、順天堂大、名古屋大や和歌山大などの先生方が働いていました。中でも私が行く約半年前から東大から留学していた松嶋先生にはミシガンでの楽しい過ごし方から毎週のラボミーティング対策まで多くのことを教えていただき大変お世話になりました。縁あって松嶋先生とは現在も東海大学病院にて優秀な先輩としてまた良き同僚として働かせてもらっています。
 帰国後2001年より本院勤務となりましたが、大学に戻ってみると浦島太郎状態で以前のように基礎的研究を行う時間的余裕(以前は研究日が週に1日か半日あり大勢でわいわい楽しく研究をしていた)は臨床医には全くなく、市中病院のさらに上をいくほど多量な臨床業務が待っていました。その頃から日常診療を行いながら研究が続けられる臨床研究に興味が湧いてきました。研究内容は診療中に思い付いたことが多く、はじめは大腸内視鏡挿入時の痛みを軽減する方法や内視鏡による全大腸挿入ができない患者での挿入率向上の工夫などがテーマでした。その後、小腸の分野でバルーン内視鏡やカプセル内視鏡が開発され、その診断的治療的有用性が報告され始めていた頃、我々も小腸出血患者を対象にバルーン内視鏡とそれ以外の小腸検査(小腸造影や血管造影やシンチグラフィーなど)の診断能を比較検討し小腸内視鏡の有用性を報告しました。また、血液内科の小川先生との共同研究は“特発性血小板減少性紫斑病患者にピロリ菌除菌が有効との報告がイタリアから出ていたけど知ってる?”という何気ない会話からはじまり、無作為割り付け試験を計画して日本人での有用性を報告できました。
 現在も日常診療の中で疑問に思ったり、大変だと感じたことをいかに効率よく理論的に解決できるかを考えて臨床研究を行っていますが、重要なことは、私もよく先輩に言われたことですが、必ず一区切りがついたらまとめて報告することだと思います。報告することで知識は整理され新たな疑問も湧いてくるからです。これからも消化管研究に興味を持つパワフルな先生方と共に、患者にやさしい消化管検査と治療をめざして東海大学から新しい情報を発信していきたいと思っています。今後とも皆様のご指導ご鞭撻を何卒よろしくお願いいたします。




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