星医会 東海大学医学部同窓会
 
 会報(第41号)
 〜平成21年9月1日発行〜


◆訃報◆
母里知之先生を偲んで
玉井 好史(3期生)

 2008年12月31日夜9時頃、僕は二十数年のしがらみから、とある病院の当直室で新年を迎えようとしていた。家の用事を全てスルーして、元旦の朝空いた東名高速を飛ばして帰るのも悪くはないと考えていたのだ。そんな僕の平和な時間を打ち破ったのは女房からの電話だった。“母里先生が亡くなられたみたいよ”
 5年生の研修で放射線科を回るまで友人のノートのコピーにあった“母里”と“もり”が一致してさえいなかった僕に先生は随分と良くして下さった。あまりうるさいこともおっしゃらず、汚い白衣とサンダル履きを咎められた以外、“しょうがねえなあ”とたいがいのことは許していただいたし、病院敷地内の研修会館(今の2号館が建っているあたり)に住んでいた僕の部屋を何の前触れもなく訪れ、僕の出すステレオの音を下品だとけなす以外は何の問題もなかった。また諜報部員顔負けの情報通であり、学生同士の恋愛関係や家庭事情は言うに及ばず、誰かがやらかしたチョンボの話など本人より早く知っておられたのではないかと思うぐらいであった。“また母里先生のスパイがいたよ”と、僕はよくつぶやいたものだ。 
 母里先生が2008年春に医療短期大学長を退官された頃からの左下肢のしびれは、夏頃には麻痺にまで進行して車いす生活を余儀なくされていた。11月半ばにALSの診断がおりた頃には、声量も心なしかおちていて症状の進行は思いのほか早いようであった。ことここに至っては悪性疾患ばかり診ていて、学生時代の貧弱な知識しか持ち合わせていなかった僕にも事の重大さは理解できた。だから先生の症状を気にしながらも、お会いした時の言葉を思うと何とも気は重かったが、この時ばかりは母里先生が退院されて何週か後に、先生のお宅に見舞いに伺った(確定診断がおりた後、逃げるようにして退院されたので挨拶もできなかったのだ)。
 そこは外界の音が遮断されて、やけに雲が近くにあるように感じられるマンションの最上階だった。母里先生は少しばかりばつの悪そうな顔で迎えてくださった。酒もご一緒したが、時々痰が絡むことを除けば、思いの外お元気な様子であった。次は何人かの仲間と訪れることを約束して引き上げたのだが、それが最後のお別れとなってしまった。
 女房からの電話の後、奥様からことの顛末を聞かせていただいた。12月26日の夜、いつも通り食事とお酒を楽しんだ後、痰をつまらせて亡くなられたという話だった。臨床経験のない奥様には痰を引かせず、ご自分で痰を引くと言ってきかれなかったのはいかにも母里先生らしいダンディズムではなかったろうか? “うちの科はもうけてない、赤字だ”などとうそぶいて胸を張っておられた先生。病院長時代に何一つうちの科に機械など買わせなかった先生。晴れがましい席ではいつも居心地の悪そうな顔をされていた。きっとご自分の痰を奥様にひかせるというのは先生の美意識にそぐわなかったのだろうと思う。
 それにしてもである。病院業務が正月期間に入り、世の中が慌ただしくなる年末に亡くなるとは・・・。“どうだ、玉井。うまくやっただろう?”とウィンクされている母里先生が今も僕の中に生きておられる。
 そんな先生のことだから、“お別れの会”などというのが論外の企画だろうということは判っていた。が、渋る奥様を口説いて強行させていただいた。“どさくさにまぎれて逝ってしまわれた様なままには出来ないんですよ、先生”。
 医療短期大学事務長の桜井さんや医療短期大学の先生たちの頑張りで、素晴らしいスライドショーも出来上がり、当日披露させていただいた(金淵先生がコピーをお持ちなので会員の方は何かの折に見てください)。
“余計なこと、しやがって”と思われているかもしれませんが、僕は良かったと思っていますし、奥様にもそうおっしゃっていただきました。
“しょうがねえなあ・・・”ため息まじりのその言葉が聞こえるような気がする。


母里先生の思い出
柳町 徳春(6期生)

「ははさと」先生ではなく「もり」先生だったこと
学生や若い研修医の私生活になぜか詳しかったこと
「できんボーイズ」にやさしかったこと
見かけや体裁よりも 中身を大事にしたこと
お酒が好きだったこと
酔っぱらってみんなでうんこ帽子をかぶせてしまったこと
権威には辛辣で口が悪く 弱いものにはやさしかったこと
病院長車に乗せてくれたこと
朝早く来てやるべき事を済ませ 夕方早く帰ったこと
常に卒業生を引き立てようとしていたこと
心の自由を大切にしたこと
堂々かつ飄々としていたこと
初めてお会いした時の眼が少し恐かったこと
東海大病院を退院される時 最後にお会いした際の眼が少し悲しげだったこと

母里先生の背中から 多くの事を学びました ありがとうございました
ご冥福をお祈りします



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母里先生の人工衛星
ハーバード大学医学部
Brigham and Women's Hospital
儘田 初穂(10期生)

 母里先生って言えば、よくみんなが「人工衛星してる」なんて呼んでいたなあ、と思い出す。本当のことを言うと、思い出すというのは正しくなくて、今でも病院の中を人工衛星してるんじゃないかと、思っている。人工衛星してるというのは、母里先生が院内のいろんなところで、教え子が何してるか歩き回ってチェックしてるということ。先生は、しょっちゅうCT室やらMRI室やらに顔を出して、「どうだ? ちゃんとやってるか?」と聞いてきた。ちゃんとやってるのはわかってるくせに、これはお決まりの会話の始まりで、先生にそう聞かれると私も自動的に昨日の出来事とか、今日の朝の子供の保育園での話なんかを報告し始める。そんなルーチンは私だけじゃなくて、院内の医者も看護師も事務員もみんなが母里先生と分け合ってた。それに、みんな結構、母里先生の人工衛星を楽しみにしてたんじゃないかと思う。
 母里先生との付き合いは、医学部時代から。私は卒業してからも東海大学病院に残ったので、先生とのお付き合いは、どのくらいか忘れるくらい長い。学生の頃から、ちょくちょく、旧病院の地下一階にあった、放射線治療科の教授室に訪れては、先生と雑談したりいろんなことを相談したりしたものだった。私は、先生の懇話会とかじゃなかったのに、なんで先生のところにしょっちゅう顔をだしていたのか、全然わからない。さっきも言ったように、忘れるくらい長い付き合いなので、どうして先生になついてしまったのかも覚えていない。とにかく、私は先生をたよりにしてたし、先生もよく面倒をみてくれたのは本当だった。
 私は医学部卒業後、研修医2年目に同級生と結婚して妊婦になった。研修医で妊婦は、体力的にかなり大変なだけでなく、何よりも大きな問題があった。一人の先輩が教えてくれたことは、研修医で妊婦は私が今までで2人目だって言うことと、1人目だった女医さんは病院をやめなくてはならなかったということ。理由は、その当時、東海大学病院では産休制度が研修医には適応されていなかったから。せっかく医者になって研修医1年をおえ、2年目の途中だって言うのに出産したらやめなくちゃいけないの?っていうのが、当然のことながら私の頭の中にそれから毎日、凝り固まっていた。もちろん、こんなときは母里先生のところへ行って相談するしかない。その当時、母里先生は病院長だったから、すごく忙しくて、人工衛星の巡回数も少し減っていた。先生は2階に病院長室もあったんだけれど、大概はいつもの地下一階の部屋で見つけられた。(先生の病院長としての不満は、院長室より自分の部屋の方が好きだったってことと、運転手付きの病院の車で出勤しなくてはならないっていうことだった)いつものように、「どうだ? ちゃんとやってるか?」の後に、妊娠出産と研修医のことを相談すると、「そういえば、例がないなあ。研修医で子供産んで産休とったやつは、今までいないんじゃないかなあ。じゃあ、調べてやる。」と言う返事。あーあ、やっぱ、だめかな、と思いつつ、多分1-2週間くらいがたったと思う。また、ふらっと、放射線科に用があったついでに、先生のところに寄った。いつものようにここ2-3日のできごとやら、おいしかったレストランのことなんかの雑談をして、「ところで先生、来年の5月が出産予定なんですけど、それまではがんばって研修医して、生まれたら3日くらいで仕事にもどれるかなあ。。。3日くらいなら休んでもだいじょうぶですか?」と切り出したら、先生の口から意外な返事が返ってきた。「産休、とっていいよ。産前産後あわせて3ヶ月。職員課に書類あるからだして。」母里先生が何を調べたのか、どうして前例がないことが何の問題もなくすんなり可能だったのか、今でも全くわからない。私はただ、さすが母里先生はたよりになるなあ、と今まで以上に先生になついてしまった。母里先生は、私みたいな先生になついていた若い人たちにとって、友達みたいなお父さんみたいな親戚のおじさんみたいな存在だった。だから、私の子供が生まれることも、すごく喜んでくれただけじゃなくて、妙に楽しみにして張り切ってくれていたんだと思う。おなかもやや目立つようになってきたある日、例によって、先生の部屋に寄ると、先生から小さなメモを渡された。「こばと共同保育所って言うところが、いいらしいよ。うちの婦長が子供預けてて、すごくいいっていってるから。今から予約しとかないと、生まれてからじゃ入れないかもしれないから、電話してみろ。」考えてはいたけれど、どんなオプションがあるのかすら、まだ知らなかったから、先生の教えてくれた保育所のインフォメーションは、本当にありがたかった。早速、電話をしてみたら案の定、その時点ではいっぱいで、うちはウエイテイングリストだった。でも、幸い、数週間後に空きができて、何の苦労もなく出産前に保育所まで確保できた。親や友達によく言ったものだ。「保育所まで、母里先生が探してくれたんだよ。医学部の教授で病院長だよ、信じられる?」
 東海大学病院の研修医も首にならずに無事に終え、私は放射線診断科にフィックスした。それから7年がたち、その間も母里先生の人工衛星は健在だったし、私の先生との付き合いも相変わらずだった。そんなある日、ハーバード大学医学部の関連病院で2年間の研究留学のチャンスが巡ってきた。実のところ、その当時私が医局に穴をあけて2年間留学するのは、そんなに簡単じゃなかった。でも、もちろん、私の陰のボス、母里先生の様々な入れ知恵のおかげで、1998年の8月25日には、私はボストンの地にしっかりたどり着いていた。留学の約束は2年。2年は長そうで実はものすごく短い。2年後に帰らなければならないときが近づいても、まだ、原著論文は仕上がってなかった。なんとか当時の放射線診断科教授の松山先生を説得して、1年留学をのばしてもらった。それから1年経って、原著論文は後一息で仕上がりそうだったが、やっぱりボストンにもっといたかった。研究は楽しくてたまらなかったし、ボストンが好きだった。私の理解の範囲では3年以上は契約違反。医学部規約のコピーを送ってもらって読んでもやっぱり、3年以上を研究に費やすことはできそうもなかった。教務課からメールが来た。もし、私がこのまま東海大をやめてボストンにとどまる決断をしたら、今後、放射線科からは2度と留学を認めないことになるとのこと。もちろん、母里先生にメールをした。何か策があるとは期待していなかったけど、単にぐちりたかった。先生の返信は、またもや意外だった。「帰ってくるな。お前にはそっちがむいてる。自分の人生決めるのに、医局のことなんか心配しなくていい。」そして、その数週間後、私がボストンにとどまるための書類が母里先生からファックスで送られてきて、すべてサインするだけで私はボストンにとどまることになった。そんな訳で、私は今でも、ボストンに住んでいてここでの研究生活も10年になり、ハーバード大学医学部から講師のタイトルももらえた。母里先生は、「お前にはそっちがあってると思ってたよ。よかったな。」といつも私のすることを喜んでくれた。2年前にそんな研究生活にも転機が来た。研究費の取得が歴史的に難しくなって、(私はブッシュ政権が悪かったんだと思っている)給料がなくなる危機となった。驚くなかれ、最短距離で一番簡単、確実な対策は、アメリカの医師免許をとることだった。免許さえあれば研究費確保に苦しむこともない。でも、この期に及んでこの年齢で改めて国試。やりたくなかったけど、選択の余地もなく20年ぶりくらいの受験勉強が始まった。母里先生はメールで何回も私にこう言った。「お前がうらやましいよ。若い頃がなつかしいねえ。」その度に、そうかあ、母里先生はうらやましいと思ってるんだ、私ってラッキーなんだなあ、と思った。先生流の励ましだったと思う。
 今年の年賀状メール、母里先生からこなかった。そんなこと今までなかったのになあ、と思っていた。後で東海の友達から聞いたことだが、先生は数人の人に出した年賀状の中で、「今年が最後の年賀状になるかもしれません」と書いていたって。先生が、私には何にも言わなかった訳は何となくわかっている。きっと、「泣くこたあないよ。どうだ? ちゃんとやってるか?」って、言うんだろうな。昔の母里先生のいた教授室は多分もうないと思うけど、いまだにふらっとあの部屋によってみたい気がするし、東海大病院のCT室に座ってたら、母里先生の人工衛星が回ってくるんじゃないかという気がする。先生が「あの世」に行く旅行予定のことを、私には何にも教えてくれなかったのはきっとわざとだし、多分、そのせいで私が日本に帰郷しても先生に会えないのは、旅行中だからと言う気がするんだと思う。先生が引退してから奥様と一緒に、きれいな南の島かなんかに旅行に行って楽しんでた話を何度か聞いたけど、「あの世」もそんな旅行先の一つで、こんどは特に気に入って長い間そこにいるつもりなのかな、なんて思う。



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三輪 剛教授を偲んで
椎名 泰文(1期生)

笑顔が似合う教授でした。   
患者さんにやさしい教授でした。
教授回診ではいつも患者さんに笑顔で話しかけていました。
学問と臨床に厳しい教授でした。
医局のカンファレンスではいつでも鋭い眼差しをしてました。
スポーツが好きな教授でした。
近隣の大学の消化器内科のチームと旧後楽園球場で試合したときも張り切ってピッチャーしてました。医局に卓球台を買い入れました。
よく医局員やMRの人達を相手に卓球してました。
空手部の顧問をしてました。
夜、空手着を着て仕事してるのを見かけたことがあります。
卒業前より教授の教室で勉強させてもらうつもりでした。
昭和55年大学卒業後、2年間の前期研修医を終え、57年に後期研修医として入局、59年に助手、
平成4年より非常勤講師として教授が退官なさる平成13年まで20年間、
教授のもとで学ばせていただきました。
20年も医局にいたんだから叱られたこと、怒られたこと、怒鳴られたことも多々あったし、
おっかない顔も数多く見てると思うのですが、今、「三輪教授の顔って」と思うと、
いつものあの笑顔しか思いつきません。
写真は平成19年11月に開催した三輪同門会の時のものです。
三輪 剛教授。
笑顔がとても素敵な教授でした。


三輪先生を偲んで
三浦 敏洋(1期生)

 三輪先生のお人柄、業績は先生にお世話になった方々なら、充分にご存知だと思いますので、今更私が付け加えることも無いと思います。
 また、開業してから十数年順調に来ているのも、三輪先生のお陰であり、学生時代から卒業後は旧6内へ入ろうと決めていました。三輪教授を始めとする諸先輩への感謝の念や、恩返しが出来なかった自責の念などは、とても原稿用紙1〜2枚では言い表せません。
 三輪先生には、亡くなる数日前に直接お会いしてお話できましたので、私の心の中でご冥福をお祈りしたいと思います。
 ただ今でも私の心の中に刻み込まれているのは、三輪先生の座右の銘です。私が医局を退職した時に戴いた色紙には、「和而不同」と書かれておりました。確かに私が在籍中の医局では、学問をするにも遊びをするにも「和」というものを非常に大切にしていたと思います。(私自身は「同而不和」のほうが多かったような気もしますが・・・)
 ただ後年、教授を退官なさる頃の座右の銘は、ある雑誌で読んだのですが、故松前重義総長の「若き日に」だったそうです。
 今回この思い出を書こうと、もう一度「若き日に」を読み返してみましたが、私も五十代半ばとなり、あの時、ああすれば良かった・・・、こうしていれば良かった・・・と反省しきりです。同窓会の皆様にも是非この機会にもう一度読み直していただけたらと思います。
 三輪先生の「旅立ち」にあたり、心からご冥福をお祈り申し上げます。
   『論語』より、君子和而不同、小人同而不和(君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず)
     「和」とは、自分の主体性を堅持しながら他と協調する事です。
      君子は協調性に富むが、無原則な妥協は排斥します。
      小人は逆です。やたらと妥協はするけれども、真の協調性には欠けています。


三輪 剛先生を偲んで
白井 孝之(3期生)

 7月2日早朝に消化器内科(旧内科学6)初代教授、三輪 剛先生がご逝去されました。
 2000年のご退任間際より、闘病されていた事を、門下生の多くが存じておりましたが、つい3ヶ月前の教室の歓送迎会での元気なお姿の印象が大きく、訃報は唐突に感じられました。
 先生は在任中は勿論、ご退任後も常に医局員の事をご案じなされておりました。1週前に教室幹事の小池君とお見舞いに上がった際、さすがに辛そうなご様子でしたが、意識ははっきりとされ、私が当番に当たっていた研究会に出席したかったのに、参加できなかった事をお話しされ、かような時にも、私たちのことをお気にかけて下さっているのかと思い、いたく感動致しました。
「これまで皆に心配かけまいと頑張ってやってきたけれど、いよいよ最後の時が来たようだ。もう一度皆に会いたい」との本音もおっしゃっていました。
 これを受け、お亡くなりになる前日まで多くの門下生がお見舞いに駆けつけ、最も来訪者の多かった前日の晩はたいそうご機嫌であったと、後日主治医より伺いました。
 私たちも先生に再訪を約し、帰途に着きましたが、再度伺う予定でいた日の早朝に訃報が届くこととなり、約束を果たせず、大変申し訳なく思っています。
 ご葬儀に際しましては、北は北海道から岩手、福島、はたまた長野、静岡、和歌山など遠方より多くの門下生が集まりました。
 先生の棺にあふれんばかりのお花入れを皆で行い、穏やかなお顔を最後に拝することができました。
 それにしても30代で教授にご就任され、多くの門下生を育て、厳しくも暖かな雰囲気の教室を造り上げ、ご多忙な日々を駆け抜けられた先生のご逝去は余りに早いものであり、残念でなりません。
 ある門下生の結婚式のはなむけの言葉として、「よい人生とは人それぞれだが、因みに私は感動の多い人生がよい人生なのではないかと思う」とおっしゃられた先生。私たちは、先生から最も大きな感動をいただきました。自分の親にも勝るように、かくも門下生を慈しみ下さった指導者がかつてあったかと。私たちは先生のような師に巡り会えて、本当に幸せでした。
 心よりご冥福をお祈り申し上げます。



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三輪 剛教授を偲んで
長谷部 哲理(3期生)

 「三輪先生の容態がよくない」との連絡を6月下旬に諸先生方からいただいた。私がお見舞いのため、病室を訪れたのは、6月30日の午後であった。そこには、ベッド上に横になり、点滴をされている三輪先生がいた。三輪先生は「皆がお見舞いに来てくれる。」とうっすら目に涙を浮かべておられた。病室でお話をした後、私は帰り際に三輪先生の手をにぎり、「また、講演会でお会いできる時を楽しみにしております。」と言った。三輪先生も、「うん、そうだね。」とおっしゃった。それが、私が聞いた三輪先生の最後の言葉になってしまった。
 その2日後に野見山先生(現、さがみ野診療所院長)から、最初に三輪先生の訃報を知らされ、ただぼう然とするのみであった。
 1974年に三輪先生は、国立がんセンターから東海大学の教授として、何もない処から内科6を立ち上げ、たくさんの弟子を育てられた。私も三輪先生には四半世紀にわたり、ご指導いただき改めて心から感謝申し上げたい。
 私が当時の内科6に入局して間もない頃は、三輪先生の業績については恥ずかしながら、勉強不足のため理解していない事も多々あった。少しずつではあるが、消化器内視鏡の勉強をすると三輪先生のお仕事の偉大さが判ってきた。特に、学会などで他大学の先生方とお話する機会があると、三輪内科の教室員であるというだけで、うらやましがられ、また優遇された事も数多くあった。
 三輪先生は在職中には、国立がんセンター時代から、細径直視ファイバースコープの開発に携わり、多くの早期食道癌の発見につながるお仕事をされた。また、消化器疾患の薬剤の臨床薬理学的検討を行い、新薬を世に送り出すデータを論文としてまとめ厚生省に提出するなど、多くの患者のためになるお仕事も数多くなされた。一方、消化器関連の数多くの学会の会長としても、その責務を果たされた。
三輪先生はまだ、やり残された事がたくさんあると思う。三輪内科の一員として、今後も三輪先生の精神を引き継ぎ、三輪内科の門下生として誇りを持ち、仕事を続けていきたい。
三輪内科で学んだ事を、多くの人に喜んでいただけるように応用することが三輪先生への感謝の気持ちと思って今後も頑張らなくてはいけないと思う。
どうぞ、これからも私たち三輪内科の医局員を守り、お導き下さい。
三輪先生のご冥福を心からお祈り致します。


三輪 剛先生を偲んで
小長谷 稔(5期生)

 私たちにとって永遠の師匠でありました三輪教授がお亡くなりになった今、さびしさのあまり自分の心の中にぽっかりと穴があいてしまった気持ちであります。数年前の三輪同門会以来、先生とお会いできなかったことがなによりも残念でありません。
 昭和61年に私は若輩医師として三輪教室の門をたたき、14年間にわたり第6内科に在籍し三輪先生に御指導いただきました。医学専門的な分野のみに関わらず、人生的なことも含め多大な影響を先生から頂いたと思っています。
 数多い先生の思い出の中で、特に印象的でありますのは、結婚にまつわるエピソードです。30代半ばにも関わらず未婚であった私に対し、ご心配頂きたびたび声をかけて下さいました。当時内視鏡センターで受付をしていました妻と婚約し、先生の御自宅へ緊張しながら御報告に伺いました時、この上なく喜んでいただいた先生の優しい笑顔は今でも克明に思い出されます。そして数時間にわたり暖かく歓迎していただいたこと。結婚式でのスピーチで、私と妻、二人の後世のために語っていただいた事柄など、いつまでも感謝の気持ちで満ち溢れています。
 三輪先生から教えて頂きました確固たる精神を、地域医療を担う一人の医師として今後も継承していきたいと思います。それが三輪教室の一員であった私の務めであり、三輪先生への恩返しの一つとも思います。
 これまでの親身なる御指導への深謝とともに、心から先生のご冥福をお祈り申し上げます。


三輪 剛先生を悼む
鳴海 裕之(6期生)

 平成21年7月2日午前5時、以前から芳しくなかった三輪先生の容態が気になって目が覚めた私は、野見山 哲先生からのメールで先生の訃報を知ることになりました。その時点ですでに先生が永眠されてから3時間が経過しており、残念ながらご臨終には間に合いませんでした。やはり今夜であったかと後悔いたしました。詳しいことは分かりませんが、先生は数年前から肝癌を患っておられ、数カ所の病院で治療されていたとのことでした。それでも私は亡くなられる直前に数回、先生をお見舞いすることができました。その際に最も印象に残ったのは先生の言葉と涙でした。「こんな情けない姿になってしまったよ、鳴海。」と先生はつぶやき涙を流されていました。三輪先生の涙を初めて目の当たりにして大変困惑した私は「まだまだ大丈夫です。また必ずお見舞いに参ります。」と答えるのが精一杯でした。ご自分に残された時間がもう残り少ないことを知って話されたと思いましたが、私は途方もない悲しい気持ちで病室を後にしました。
 三輪先生の思い出は沢山ありますが今でも忘れられないことが2つあります。1つ目は私が当時の前期研修医2年目で、次年度の大学院への推薦状を頂くため三輪先生の教授室へ伺った時のことです。緊張して入室した私が用件を切り出そうとしたところ、三輪先生は「そろそろ君が来る頃だと思っていたよ。」と笑われ、推薦状にサインをしてくださいました。その時の先生の少しとぼけた笑顔がとても印象的でした。今考えると「少し来るのが遅いよ、君は。」と言いたかったのかもしれませんが、数年経ってから、あれはあまり直線的に言わない三輪先生の独特の言い回しであったと気付きました。
 2つ目は三輪先生の退官まであと数年に迫っていたときの確か、真鶴での新年会での先生の一言。
偶然、宴会の席で三輪先生の隣に座ることになり、その会話の中で先生は、
 「俺の仕事は、医学博士をより多く生み出すことだった。だからもう大半の役目は終わったよ。」と
ぽつりと話されていました。その言葉と表情は少し疲れた様子が窺えました。私は、浅学非才の弟子でご苦労をおかけし、大変申し訳なかったといった気持ちになったことを覚えています。
 先生の業績や経歴は消化器病領域の医師ならば知らない人がいないほど高名な教授でしたが、そのイメージとは反対に大変気さくで、医局員に気遣われる方でした。一方で静かに大変鋭いことを言われた方で、毎週行われた医局でのカンファレンスでは、大方の意見が出尽くした頃、皆がはっとして沈黙するような意見を良く述べられていたことを記憶しています。
 三輪先生は、医局員にとって言うまでもなく特別な存在でしたので、先生のご逝去でご指導いただいた弟子全員が、表現できないほど大きく、痛く、悲しい時間を過ごしていると思います。そして我々にとってひとつの時代が確実に終わったといった感じさえします。
三輪先生への感謝は言葉では尽くせませんが、本当にお世話になりました。
三輪先生ありがとうございました。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。


三輪教授を偲んで
鄭 義弘(7期生)

 三輪先生、私が昭和62年11月研修医2年目のときに一期生の椎名先生に連れられ入局のご挨拶に教授室を訪ねた時であります。「まあ、楽しくやりましょう!」という先生の意外なお言葉に緊張がほぐれる思いでした。それでも当時は緊張で会話すらできませんでしたが、初めての出向の前日「困ったときはいつでも連絡してきなさい」と不安感を解してくださり、十二指腸潰瘍が再発したときは「誰だ、テイチャンを苛めたのは!」と冗談交じりに気を紛らわせてくださり、実験が思うようにゆかず悶々としているときは「まあ焦ることはないよ、そんな簡単に結果が出るようなら誰でもやってるよ」と励ましてくださいました。
 定年退官された平成13年4月からは光栄にも当院の顧問としてお迎えできたときは嬉しさと、正直新たな緊張感を感じたものですが、以来8年間我々を温かく見守ってくださいました。ここで語りつくせるものではありませんが、学会等各方面でご活躍を続けつつも対外的な肩書きは常に「海老名総合病院顧問」とされ法人の名も広めてくださいました。6年前に地域で立ち上げた内科領域の研究会には顧問としてご就任いただき、昨年は「いい会になってきたね!」とお褒めの言葉もいただけました。
 7月1日の夕刻、海老名総合病院ご入院中の先生を回診をかねて訪ねました。おそらく頼りない担当医だったろうと思います。前日は多くのOBが訪れたので、
 「先生、昨日は賑やかでしたね、お疲れではありませんか?」とたずねたところ、
 「みんな来てくれたんだよ、嬉しいね。世話になるね、わがままばかりで・・・。」
 「何をおっしゃいますか、また外泊しましょう、明日以降○○先生もこられるようですよ。」
 「・・・・・、」。
これが先生との最後の会話となり、その翌日の未明に先生は旅立たれました。
最後まで周囲を和ませようと、我々のような者にまでお気遣いをされる先生でいらっしゃいました。
いまでも三輪先生が執務されていたお部屋の前を通ると、
ドアの奥にはいつものように柔和な微笑を浮かべられた先生がいらっしゃるようです。
おそらく最後まで頼りない弟子であったろうと思いますが、
これからも懲りずに天国から見守ってください。
三輪先生、どうぞごゆっくりおやすみください。
そして長い間本当にありがとうございました。
合掌




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