星医会 東海大学医学部同窓会
 
 会報(第43号)
 〜平成22年9月1日発行〜


卒業生の学外教授誕生

国際医療福祉大学教授就任に際して
国際医療福祉大学熱海病院
神経内科教授 永山 正雄(4期生)


ご無沙汰申し上げております。
 本年4月から、国際医療福祉大学教授として神経内科(学)、救命救急(医学)の領域を中心に、主に国際医療福祉大学熱海病院で診療・研究・教育・管理に励んでおります。
 引き続き発信、他流試合を続け、結果的に医学・医療の発展、東海大学医学部の発展に貢献出来ればと考えております。
 以下、学術的プロフィールを記し、ご挨拶に代えます。
 引き続きご指導、ご協力の程、宜しくお願い申し上げます。

【略歴】永山 正雄(ながやま まさお)
昭和58年 東海大学医学部卒業
昭和58年 東海大学病院臨床研修医
昭和62年 国立病院機構東京医療センター神経内科・救命救急医員センター医員
昭和63年 東海大学神経内科学助手(篠原幸人教授)
平成8年  米国ミネソタ大学医学部神経内科学留学(Iadecola教授)
平成11年 東海大学神経内科学講師
平成16年 東海大学救命救急医学講師(猪口貞樹教授)
平成18年 国立大学法人島根大学医学部内科学講座嘱託講師(小林祥泰病院長)
平成18年 横浜市立脳血管医療センター神経内科部長・臨床研究部長、のち地域連携部長兼任
平成22年 国際医療福祉大学教授 熱海病院神経内科

【専門領域】
神経内科学; 脳血管障害の臨床・臨床研究,
難治性神経疾患(神経難病、認知症ほか)の臨床・臨床研究,
脳卒中・神経センターの管理・運営
救命救急医学;脳蘇生学、脳神経救急・集中治療医学
医学教育;シミュレーション教育、医学英語教育、医の倫理・プロフェッショナリズム教育

【主な資格・学位】
日本内科学会総合内科専門医・指導医, 日本神経学会専門医・指導医, 日本救急医学会専門医,
日本脳卒中学会専門医, 医学博士

【主な学会活動】
理 事 日本蘇生協議会常任理事
世話人 日本神経救急学会
評議員 日本神経学会, 日本神経治療学会, 日本脳卒中学会, 日本脳循環代謝学会,
日本臨床救急医学会, 日本POS医療学会, 日本成人病(生活習慣病)学会
委員会 心肺蘇生ガイドライン2010日本版作成合同委員会共同座長
5学会合同脳卒中合同ガイドライン委員会事務局責任者
American College of Physicians日本支部学術企画委員会委員

【主な著書】
1. 編著 神経救急・集中治療ハンドブック, 医学書院, 2006(改訂中)
2. 編著(事務局) 脳卒中治療ガイドライン2004および2009, 協和企画
3. 監修協力 AHA 心肺蘇生と救急心血管治療のためのガイドライン2005日本語版,中山書店, 2006
4. 分担執筆 今日の治療指針2004年版, 2007年版, 2010年版, 医学書院
5. 分担執筆 白衣のポケットの中. 医師のプロフェッショナリズムを考える, 医学書院, 東京, 2009



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卒業生の学内准教授誕生

今年は平川 均先生(小児外科学:6期生)、赤松 正先生(形成外科学:11期生)、鈴木隆弘先生(産婦人科学:8期生)、鈴木育宏先生(乳腺内分泌外科学:11期生)、出口隆造先生(消化器内科学:14期生)が准教授に昇格されました。

小児外科と歩んで准教授に到った25年の道のり
東海大学八王子病院小児外科 平川 均(6期生)

小さい頃から喘息でよく病院のお世話になったが、親はもちろん親戚中に医者はなく、医者を志そうという発想には結びついていなかった。附属相模高校に入ったのは、親バカと言えばそれまでだが、学校を休みがちであった息子に父が受験の苦労をさせたくなかったことが理由であった。同級で石野真子が好きだった東永廉君(整形外科准教授)が、医学部狙いで入学したのと訳は違った。高3の時、優等・進歩・皆勤賞の3冠を獲得したいという思いで勉強に力を入れた結果、担任から推薦試験の話しをもらい、嬉しい誤算で医学部合格したのはよかったが、学費の膨大さから先行き不安となった両親と、占い師の処に出向きサイコロを振った。なんとかなるから・・・。の天のお告げで晴れて入学となった。入学後は、王康雅君(小児科准教授)や東君らと野球部で活動しつつ、留年しないことだけを心がけ6年間過ごした。小児外科を志望するに当たり、同じ学生室にいた橋本星代さんの彼氏(現夫)である藤本嘉彦先生(4期生で卒業生初の小児外科入局者)から直接話しを聞けた影響は大きかった。小児に興味があったし喘息だったので、小児科でもよかったのだが、互いの好きな女の子の話しをできた仲の王君が(今は教えてくれない・・)小児科一本槍だったので、プライオリティーは彼にあると諦めた経緯もある。前小児外科教授の横山清七先生も“おうっ!一緒にやろうぜ”と快く受け入れてくれた。研修医を始めた年は、藤本隆夫先生(現愛育病院)が、小児外科へ助手として入局された時でもあった。3・4年目は極楽トンボと誉められた(?)国立大蔵病院で一般外科を研修、5年目に大学にもどり、今も頼りにしている徳田裕先生(乳腺外科教授)をインストラクター、堀江修先生(堀江医院医院長)を番頭にと畏れ多い布陣で外科チーフレジデントをやらせて頂き、6年目の助手採用と共に、待ちに待った小児外科の門をくぐった。しかし喜びも束の間、僕に小児外科の魅力を伝え誘った藤本嘉彦先生はなんと既にお辞めになっていて、さらに藤本隆夫先生もその1年後には順天堂大学にヘッドハントされ、みなしごハッチ状態の7年目は、横山先生とまさに青2歳の私の2人だけになってしまった。両翼をもがれた横山先生は、大好きな麻雀やビールもおちおちやっていられないと思ったか(?)、8年目に、清瀬小児病院から現小児外科教授の上野滋先生を指名された。この年はちょうど私の1年前に入局された添田仁一先生(5期生)が留学先のアイルランドから戻られる年でもあり、入れ替えで私にも俄かに留学のお鉢が回ってきた。Prem Puri先生から、異国生活にはワイフが必要との忠告があり、素直な私は留学に旅立つ2週間前に結婚式を挙げた。順天堂大小林弘幸先生の凄さを目の当たりにしたアイルランド生活は今思えば夢の世界であった。帰国後(10年目)、添田先生は程無く一般外科に移られ、また卒業生出身者が私一人となった小児外科は、横山―上野―平川体制で横山先生の退官されるまでの10年間続いた。上野新体制1年目で、待望の後輩、檜友也先生(18期生)が入局したのは、私の卒後20年目の春であった。“早く下が入ればいいのにね・・”多くの人がかけてくれたこの言葉はいつしか呪文となり、万年平だった私の頭の中には、「下が入れば=負担が減る」の公式ができ上がっていた。しかし現実は違った。考えれば当たり前だが、経験年数を積み重ねていた自分は既に教える立場になり、夜間休日のオンコールを分かち合っていた先生は教授になり臨床の前面から引いた。つまり仕事量はかえって増した。23年目、器の大きな檜先生は敢無く小児外科を飛び出し、卒業生のいなくなった教室はついに他大学にスタッフ要請の運びとなった。24年目、神は見捨てていなかった。隠し玉の鄭英里先生(21期生)が満を持して母校に凱旋、そして私は慣れ勤しんだ伊勢原から八王子病院へ、身を粉にして働いてきた御褒美に小児外科医長の肩書きを頂き一人出向、25年目を迎えた今、移動してきた鄭先生と共に2年目の八王子を謳歌しているところである。
大学に就職した時、ここで偉くなって伸し上ってやろうという気概は皆無であり、ただ目の前にいる患児を診て、地方に行くため学会活動をせっせとやってきた。しかしここに来て、歳をとる中大学で小児外科を続け、後輩を受け入れるにはそれなりの地位が必要だということに気付き、昇格に必要なもの諸々を揃えた次第である。
 最後に、准教授になるにあたり決して一人の力では叶えられませんでした。今まで支えてくれた方々に、この場を借りて感謝申し上げます。


「お星様になったママ」
外科学系乳腺・内分泌外科学 鈴木 育宏(11期生)

「ねえ、パパ・・・、ママはどうしちゃったの?」
「ママはね・・・、お星様になって、遠くから見守ってくれるよ」
「ふ〜ん、そうなんだ。じゃあ良かった」
卒後6年目、東京病院の個室での一コマ。
「力が足りずに申し訳ありませんでした」そう言って、ご主人に頭を下げた後、患者様の4歳になる娘さんがご主人へひと言。涙が止まらず、病室を後にしました。
 外科チーフレジデントが終了し、自分の中では、臓器を絞らずに、まだまだたくさんの手術を学びたいと思い、東京病院に出向きましたが、手術を行い、多数の腋窩リンパ節転移があることがわかった患者様は、当時、最強の治療と目されていた大量化学療法を行うために、伊勢原で1年近くの入退院による治療を行い、徳田裕教授から、「今は、肝転移があるが、落ち着いているから、そっちで治療をお願いするよ」という電話とともに東京病院に戻ってきました。程なくして、患者様から「先生、信号待ちしていると左右の信号が見えないんだよね。今日、娘を幼稚園に送りに行く時だったんだけど・・・、疲れてるんだね、きっと」。脳転移でした。
 本当に何も出来ず、手術では治らない病気があることを知り、この「お星様」になった女性との出会いから、徳田裕教授に治療法を相談する中で、こういった患者様を救わなければいけないという思いが、今の自分の出発点です。加えて、当時、東京病院は田島知郎教授が院長で赴任していらっしゃいました。臓器班を決めていなかった自分は、必然的に(?)乳癌の手術に携わることが多くなり(当時は、大腸班、肝胆膵班、胃(マーゲン)班、食道班は各々、スタッフが赴任していたが、乳腺班のスタッフだけが空白・・・)、田島教授から手術のイロハを教えて頂きました。その後、大磯病院、済生会平塚病院に出向しましたが、乳腺疾患の症例は本院に集中することが多く、実際、乳腺疾患を本格的に扱うようになったのは、卒後12年目に本院に戻ってきてからです。現在は化学療法センターが整備され、スタッフも増えましたが、その当時は、診療の合間に処置室に行って点滴を入れてという外来診療でした。そのお陰で、外来中は、休憩はなく昼食も取らない、ともすると夕食も・・・という情操教育(?)を受けました。そんな高等教育を受けても、待ち時間が増え、終わるのが遅くなり、自分の外来終了時間が深夜0時を超えたことがあり、その時の最後の患者様が翌週に再来し、「家に着いたら2時でした・・」と言われ、その話の後、間もなくして、「外来の診療開始時間を8時30分から8時開始に」という通達が流れ、現在の診療形態になっています。少なからず、この0時越えの事件が診療開始時間に影響したのではないかと思っています。最近では、0時越えこそ無くなりましたが、11時頃になることは多々あります。さらに診療開始時間が早まり、皆様に迷惑をかけないようにと切に願います。
 ご存じのように、乳癌症例は増加の一途をたどり、患者様の専門志向もあり、外来はパンク状態にあります。自分が本院に戻ってきたころは、徳田教授、鈴木、齋藤講師と3人で診療していましたが、最近では乳腺外科を目指すフレッシュなブレインがたくさん集まってきてくれました。上司と後輩に恵まれ、仕事しやすい環境を見て、集まってきたスタッフとともに、ひとりの患者とその家族を大切に思い、全力で診療にあたりたいと思います。
 最後になりましたが、今回の昇格にあたり、乳腺・内分泌外科、徳田 裕教授に多大なるご尽力を頂戴したこと、また、日々の診療では、病理診断科、梅村しのぶ准教授にご指導頂き、厚く御礼申し上げます。今後、星医会がさらなる発展を遂げ、会員皆様が益々ご活躍されることを祈念し、お礼の言葉とさせて頂きます。
この度は、有り難うございました。


准教授に昇格して
内科学系消化器内科学 出口 隆造(14期生)

付属大磯病院・岡義範院長に御推薦を賜り、准教授を拝命致しました出口でございます。
御承認いただいた付属病院・消化器内科の峯徹哉主任教授にも、心より感謝致します。
 私は、現在大磯病院の消化器内科医として、主に内視鏡を中心とした診療を行っております。1993年に東海大学医学部を卒業し、そのまま付属病院の研修医となりました。研修ローテーションの間に、旧第6内科の先輩方が施行されていた内視鏡治療に興味を抱き、1995年に故三輪剛教授率いる医局に入門させていただきました。入局してからは、胃カメラを諸先輩方にご指導いただき、それが現在の自分のスタートであったと今も実感しております。当初は医局員も多かったため、入局3ヶ月で日立戸塚病院に出向となり、ルーチンの胃カメラもまだ怪しかった自分にはかなりの不安がありました。しかし、三輪ファミリーを卒業された先輩方が必ず出向先に常勤され、付属病院と同様の指導が受けられ、本人次第では付属病院よりも多くの内視鏡検査を行うこともできたように思われます(特に大腸)。その頃の自分は、臨床のみで研究には全く無関心でしたが、三輪教授が出向している一人一人にも研究テーマを考えておられ、自分にもヘリコバクター感染の研究を行うように伝えられました。ヘリコバクターに関して殆ど無知識であった自分に、いつもヒントを与えてくれていたのが、当初講師の高木敦司先生(現総合内科教授)でした。
 2年の出向から本院に戻った自分は、とにかく諸先輩方のように内視鏡が上達することを目標にしていましたが、年数が経過すると共に実験室に入ることが多くなりました(高木マジックにはまってしまったのかも?)。当初助教授の高木先生は、多くの学位取得者の指導をされ、色々あるアイデアの一つを自分にも与えていただき、何とか自分にも三輪教授が御在任されている中で学位を取得させていただきました。また、当時の医局の先輩方からのご配慮により、期間限定で外来と内視鏡当番以外には病棟もフリーにしていただけたことは、今でも心より感謝を申し上げます(何とも言えないプレッシャーも・・・)。学位修得後は、救命救急センターや総合内科を経験し、研究にも没頭していた自分に峯教授から大磯病院の出向の話がありました。
 5年前から大磯病院に赴任し、現在も高木教授と臨床研究や学会活動も行っておりますが、日常は研修医や医学生の教育にも力を入れているつもりです。また、大磯に赴任した当初は内視鏡診療にも変化が訪れていた時期であり、ESDや小腸内視鏡等は今後も発展してゆく分野と思われ、准教授に昇格してからも診療・教育・研究面において東海大学に貢献できればと考えております。
最後になりますが、昨年夏に永眠されました三輪剛教授のご冥福をお祈りすると共に、私のような部下にまでご教授下さったことを心より深く感謝致します。




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