星医会 東海大学医学部同窓会
 
 会報(第43号)
 〜平成22年9月1日発行〜


◆訃報◆
木村三生夫先生のお姿
大川小児クリニック 大川 尚美(1期生)

 記念すべき一期生であり、初めての小児科医局入局者ということで、この原稿の依頼が私のところに舞い込んだのかもしれない…
 しかし残念ながら、私は昭和55年に卒業し、前期研修医のローテーションが終了した直後の57年9月に急に横浜市大小児科の方にお世話になることが決まったので、木村先生との接点は案外少ない。
今思い出してみても、注意されたとか、怒られたとか特別書くべきエピソードに乏しい…
木村先生は当時厚生省のお仕事が多忙で、私が直接お話しできるのは週に2回の教授回診の時くらいだった。ぺエペエでチャラチャラしたお姐ちゃんのような研修医だった私(当時の女医としては外見も態度もやたらケバくデカかった…)に対して、回診の時もその他の時も、木村先生はいつもきちんとした敬語を使って接してくださった。
その姿は、一環してダンディで春風駘蕩のごとく柔らかな物腰であった。少なくとも私は、声を荒げられた姿などお見受けしたことがなかった。
一期生だった私と岡本裕一先生は、卒後半年になるやならずで、医局に人手がなかったためか、一人当直の責務はおろか、小児科一般外来の枠まで与えられていた。今考えると我ながら空恐ろしい。
医局の最終責任者であった木村先生は、もっと恐ろしかったのではないかと拝察される。しかし、医療事故も患者さん側とのトラブルも何事も起こらず、私と岡本先生にとっては多いに勉強になり、また、やたらと度胸もついてしまった。今こうして一人で小児科開業医を続けていられるのも、その当時の体験が原点になっている気がする。
当時はとかく、「のんびりしすぎだ」と他科から言われていた小児科医局ではあったのは否定しない。卒後の研修が他科では4月から始まったのに、小児科だけは「6月から来ればよい」と言われた。
他科へ行った一期生たちからは非常に羨ましがられた。国家試験の合格発表から前期研修が始まるまでのあの2か月の間、たっぷり休養を下さった木村先生に感謝である。
なぜなら、その時以来、医師となった以上今に至るまで、そんな心と体の休養は望んでも絶対無理だからである。
人生あくせくしても始まらない。苛々してきたら、もう写真の中でしか拝見できない木村先生の柔和な笑顔と、良き時代であった当時の小児科医局の和やかさを思い出してみるか…
木村三生夫先生、安らかにお眠りください。合掌。


木村三生夫先生を偲んで
久保田 千鳥(2期生)

 東海大学小児科学教室の初代教授、木村三生夫先生。
常に穏やかで、教授としての気品溢れる先生でした。小児科入局後は、間近で、人を慈しむような素敵な笑顔を拝見できました。研修医時代、心身ともに疲れきっている時も、木村先生の笑顔に触れると、心から癒され明日へのパワーの源泉になったと言っても過言ではありませんでした。
先生は、神経学、感染症学、免疫学などの分野で多大な業績を収められ、小児科学の発展に貢献されました。そして東海大学在任中の華々しい業績もさることながら、臨床家として研究者として、84歳の生涯を閉じる直前まで、現役でおられたことに、深い感銘を覚えそして心から敬意を表しております。
 昨年は新型インフルエンザ騒動のため、小児科、内科系の先生を始め、多くの先生がワクチン接種と診療に多忙を極めた日々でありました。
 木村先生は、昨年12月にご入院になられる直前まで、院長としての責務を全うされておられたとお聞きしました。しかし、呼吸不全に陥り酸素吸入を受けながらという厳しい体調にも拘らず、日本臨床ウイルス学会発行誌「臨床とウイルス」の論文の初校ゲラ刷りのチェックを行うなど、不屈の精神力で闘病生活を送られました。
 医師として、生涯現役。こんなに素晴らしい木村先生の指導を仰ぐことができ、私達門下生は、幸せ者です。
私事ですが、東海大学を退職、開業し6年になります。開業後も木村先生監修の感染症サーベイランスにより、インフルエンザ、百日咳、水痘、流行性耳下腺炎などの感染症の動向を把握することができました。私は、乳児健診時、ボツリヌス症発症の予防対策として、「1歳未満の乳児に蜂蜜をあげないように」という木村先生からの教えを保護者の方々に今もお伝えしています。
 木村三生夫先生、今までの多くの御指導を頂きありがとうございました。
 偉大な先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。



▲ページのトップへ




木村三生夫先生を偲んで
太田 和代(4期生)

 2010年2月、初代小児科学教授の木村三生夫先生がご逝去されました。学生時代に木村先生の授業を受けた星医会員は、あの笑顔が忘れられないのではないでしょうか。
 学生時代から小児科医になりたかった私にとって、初めての先生の講義で笑顔を絶やさないソフトでやさしい人柄は心に描いていた小児科医そのものでした。その後、小児科に入局し大学院生として木村先生のご専門の予防接種の研究をさせていただけることになり、近くで先生と接する機会が増えると、先生が外へはやさしく、ご自身の仕事には非常に厳しいことがよくわかりました。厚生省(現 厚生労働省)の予防接種研究班の班長を長い間つとめられ、日本のワクチンの第一人者といえば木村先生という時代でした。先生はその臨床研究のトップとして、国際百日咳ワクチンシンポジウムの会頭をされました(デンマークで開催)。そして百日咳ワクチンの臨床と疫学の研究の功績で「小島三郎記念文化賞」(日本の臨床免疫の最高峰の賞の一つです)を受賞されました。このワクチンは後に米国やヨーロッパの各国で使われるようになりました。
 そのような輝かしい業績を残された先生ですが、もう一つ木村先生について忘れられないことがあります。それは、誰もが認めるグルメだったということです。私よりも上の年代の医局員から、学会で先生に同行した折りに頂いた料理のエピソードをいくつも聞かされました。私も国際小児科学会がパリで開催されたとき、発表後の夕食にとてもオシャレなベトナム料理の店に連れて行っていただきました。奥から店主が出てきて両手を拡げて木村先生を歓待してくれたのでびっくりしました。先生がその店に以前に何回も行ったとは考えられないので、その先生の風貌から日本の政財界の大物がお供を引き連れてお忍びで来店したとでも思ったのでしょう。帰国後、その店が当時セレブが行くような有名な人気のスポットだったと雑誌を見て知りました。いつも沢山の仕事をされて、学会への移動中の乗り物の中でも文献を読んでいらした先生がどうして最新の人気の店をご存知だったのか不思議です。
 一流品好みでいつも隙のない装いの先生、そして医局員を家族のように心配してくれる面もありました。B型肝炎ワクチンの研究会で島根に行った時、当時独身だった満田先生と私のために出雲大社(縁結びの神様)のお守りを私たちが気づかないうちに買ってくださったこともありました。(もちろんお守りの御利益はありました。)
 葬儀の日、先生のお顔を拝見しました。眠っているような安らかなお顔でした。先生は間質性肺炎で入院され、酸素投与を受けながら亡くなられる前まで文献を読んでいらしたそうです。最後まで私たちに研究者としてあるべき姿を示してくださったのだと思います。今までの先生のご指導に深く感謝申し上げますと共に、木村先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。


木村三生夫名誉教授を偲んで
専門診療学系小児科学 王 康雅(6期生)

 木村三生夫先生は、小児科初代教授として東海大学小児科の礎を築かれました。特に感染症学、予防医学、神経学にお力を注がれ、私たち卒業生に優しく、時に厳しく御指導くださいました。
 私が前期研修医であった頃、教授回診にて百日咳患者の診断や治療などに関して、その場で30分もかけてレクチャーしてくださいました。メモを取るだけで四苦八苦であった自分がいました。
 大学院生であった頃、私の研究テーマは「インフルエンザワクチンの経鼻接種の有用性」でしたが、堺春美助教授(当時)とともに、研究室で基礎の基礎から丁寧にご教示いただきました。この頃は、学会活動も忙しく、私が発表させていただいた演題にも数多くのアドバイスを頂戴いたしましたが、私が炎上しても「次に同じことを繰り返さなければよい」と温かい言葉をかけていただきました。
 助手となった頃、重症患者を一手に引き受け診療を行っていた私に、「君自身の健康にも気を配りなさい」と語りかけてくださいました。
 私が教授室で眠ってしまい、目が覚めた時には既に木村先生が仕事をされていて、笑顔で「やぁ、おはよう!」と仰られた時には、顔から火が出ました。
 私は不肖の弟子であったことから、最後まで「王君」と呼ばれ続けましたが、多くの先輩方は「○○」と呼び捨てにされ、木村先生からの信頼を勝ち取られたのだなと、いつも羨ましく感じておりました。
 退官された後、小児科同窓会でお会いした際にも、「診療・教育・研究は、大学病院に勤務する医師・教員の義務であり、そのバランスを保つことは、小児科の発展に繋がる」と熱く語られておりました。
 私は木村先生に怒られた記憶がありません。いつも笑顔で接してくださいました。今、その優しい笑顔を拝見することが出来なくなりました。まだまだ長きに亘り御指導いただけるものと思っておりましたのに、残念です。
 私は、微力ながらも東海大学小児科の発展のため、今後も努力・精進させていただくことを木村先生にお約束し、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
 木村三生夫先生、有難うございました。



▲ページのトップへ




365日の臨床医、斉藤斉先生を偲んで
東海大学体育学部生涯スポーツ学科
中村 豊(1期生)

 驚きました。斉藤斉先生の訃報を同期の救急医療の中島功先生から聞いたときには誰が亡くなったのかを電話口で何度も聞き返しました。中島先生の口からは“斉藤斉先生に間違いない”との返事にしばらくは呆然としておりました。と云いますのも4日前に一緒に仕事をしていましたので、まさかの訃報でした。その仕事ぶりには体調不良の素振りは全く無く、元気な話しぶりは昔と少しも変わっておりませんでした。
 私は斉藤先生に頼まれて、週1回2時間だけ外来患者さんや入院患者の診察をお手伝いしておりましたので、4日前に斉藤メディカルクリニックへお邪魔して一緒にお仕事をしていました。したがって、このようなことになるとは夢にも思っておりませんでしたし、恐らくは私が斉藤先生の元気な仕事ぶりを見た最後の同級生であったと推察します。斉藤先生は神経内科の出身で、開業されてから入院病床を抱えて独りで診療されていましたので内科的な事柄は何とか処理が出来ても、外科的な事柄は対応が困難で、特に整形疾患を抱えた入院患者も多いために診療を手伝ってもらえないかの依頼でした。2時間の短い間ですが手が空いた時にはいろいろな事柄について意見を闘わせました。彼は学生の頃からdebateが好きで世の中の出来事、政治、経済、医学部の現状など内容は多岐に渡り、意見を言い合うことで互いにストレス発散をしていたのだと思います。
 私は今で言うところのメタボリック症候群で、恥ずかしながら医者の不養生を地で行くあるまじき状態でありました。斉藤先生は私の状況を診て即治療が開始されました。治療方針についてもお互いにdebateしながら内服薬を処方してもらっていました。今思えば人の健康を案ずるより自分の健康を心配せよと言いたいところですが、私が想像するには彼は十分に自身の体についてもチェックをしていたと思います。彼は私に対して定期的に検査を行うように促してくれていましたし、私のような整形外科医と違って定期的に採血検査もしてくれていました。私自身にメタボの重症感は全く無く、軽んじているきらいがありましたが、斉藤先生に促されてチェックを受けていたような状態であり、内科医というか彼は細やかにチェックをするなと感心をしておりました。すなわち、斉藤斉先生は私の主治医であり、健康管理人でありました。
 今回の一連の事を看護師さんから聞いたところでは、自身もチェックを行っていて甲状腺ホルモンの値に異常が出て、本人も異常値に対して異常の程度が軽いことや自身に症状が全くないことから再検を何度か行い、ようやく異常値として認知して治療を開始して間もない頃との事でした。しかし、この事が事態に関連したかは定かではありません。
 斉藤先生自身も内科医として自身の体についても十分に注意を払っていたと推察されますが、互いに50代半ばを過ぎれば少しは身体を休めなければと言い合っていた矢先にこのような突然の事態が起こることは残念で仕方がありません。今思えば1年365日毎日医療に専念し、入院患者さんのためにも土曜も日曜もなく毎日病院に顔を出し、医療に専念されてきました。彼は独りでこの病院を切り盛りするのは大変だと口をもらしていましたし、そろそろ誰か一緒に病院をやってくれる人材がいないかと探してもおりました。恐らくは入院患者さんのために、集会への参加や家族サービスもほとんどせずに医療に没頭された日々ではなかったかと推察されます。ここに改めて斉藤先生の医療に対する姿勢に対して敬意を表し、ゆっくりとお休み下さいと申し上げたいと思います。


星医会の創立者、活力の人の早い損失
岡本 裕一(1期生)

 平成22年1月早々に後輩から斎藤斉君の訃報の第1報が来ました。あまりにも突然の話で信じられませんでした。彼は、第1期生で昭和55年3月に卒業しました。私と同期でしたが、年齢は私より一つ上でした。早い終末でした。
 卒業前から斎藤君は、同窓会を作りたいと言っていました。学生時代は、それほど親しい仲間では無かったのですが、同窓会創設への彼の思い強さと積極性はすばらしいモノでした。 
 東海大学医学部同窓会は、斎藤斉君と森田英樹君と数名の第1期生で昭和55年創設されました。斎藤君が、初代同窓会会長に就任しました。はじめは同窓会と言うよりも同期会のようなことから始まりました。その後、会員数が増えてくると会則の制作・会費の決定等、徐々に検討することが増えていき、当時のメンバーが研修医だったため結構ハードな会運営でした。同窓会の最高決定機関を総会として全会員参加型にしていたら総会の参加人数が集まらず、議決が難しくなり会則の変更、会費も年会費制をとっていたため会費が集まらず、またもや会費を変更とバタバタした会運営で「へこたれそうな」中、斎藤会長の持ち前の粘り強さと前向きな考え方により、今の星医会があるのだと思います。 また、私が在籍していた病院管理学教室の尾崎恭輔教授(故人)の計らいで教室内に同窓会事務局を置かせて頂きました。さらに星医会会則の制作は、斎藤君も私も研修医で時間も無く困っていたところ、当時、病院管理学教室の塚田 茂先生(故人)が、アドバイスくださり会長の意見を取り入れながらほとんどを制作して頂け斎藤会長と私とで大変感謝した記憶があります。現在までに何回かの改正により変わってきていますが骨子は、変わっていません。
 斎藤君は、星医会15年目に会長退陣、その後第1期生の評議委員も辞められ、最近は星医会とは疎遠となっていましたが、有床診療所運営が忙しかったのだと思っていました。亡くなった時、診療所は満床だったとのことです。
 斎藤君の前向きさと粘りについてのエピソードです。斎藤君は、現在の開業前に「病院」を作りたいと相談にきました(当時、私が病院管理学教室に在籍していたため)。当時、過剰病床が問題になり、政府が県単位の「地域医療計画」の策定を開始していました。斎藤君が予定していた場所は、過剰病床地域で病院開設不可能なところでした。その話をしても斎藤君は、どうしても「病院」と粘るので、私ではらちがあかないので、当時の神奈川県庁医療整備部長が知り合いだったため紹介しました。1度目は私と行きましたが、その後も何度か部長を訪ねたようです。結果的に病院開設は、かなわなかったようです。
 この辺で、斎藤君の学生時代の話でも出来るといいのですが、彼は、最前列の席で授業を受けていたと思います。第1期生の学級委員的なこともやっていたような気もします。どうもあやふやですみません。前に書きましたが学生時代、特に親しくもなく、また私はあまり学校へ行かなかったので、すみません。印象は、私と違いまじめな学生でした。
 平成22年は星医会30周年記念の年です。30周年記念誌に斎藤君の文章が記載されています。斎藤君は、亡くなる数日前に、星医会事務局に元気な声で連絡が入っていたとのことでした。原稿は、亡くなった後に親族の方に届けていただきました。
 斎藤元会長として平成22年3月の記念式典に参加していただけなかったことが、大変残念です。斎藤君の考えていた理想の同窓会として発展しているのか、今後の進む道について是非、彼の意見を聞きたかったのですが・・・・・。同期で未だ星医会に関係している私としては、非常に悔しく思います。
合掌


斉藤 斉先生を偲んで
杉浦 弘和(1期生)

 斉藤斉先生、いや一期生はみなそんな呼び方はしなかった、あえて学生時代と同じ「ひとしちゃん」と呼ばせてもらいます。平塚で開業され地域の方々の健康を守るため忙しく働いていると伺っていたので、このように早く「ひとしちゃん」とのお別れのときが来ようとは・・・。お別れの言葉を書いていることが夢のように思えてなりません。
 「ひとしちゃん」との出会いは東海大学医学部に入学した1974年4月でした。席順が近く浪人回数が一緒でラグビーが共通の趣味と共感するところが多く、すぐに親しくなりました。「ひとしちゃん」は大学入学当時からバイクにまたがり、アバルトのハンドルが印象的なジェミニに乗っている湘南ボーイでした。小田急線の「大根」駅今は「東海大学前」駅から湘南校舎の間にある「心臓破りの坂」は、教養の授業に行く我々学生の士気を削いでいました。そこを颯爽とバイクで追い抜いていく「ひとしちゃん」の姿は格好よかった。時々「乗れよ」と言われバイクや車に同乗させてもらったけれど、不思議と女性は乗せなかった。理由を聞いても笑うだけで、「女は乗せない戦車隊だ」と戦前生まれの人しかわからない歌の一節を言っていました。「ひとしちゃん」独特のこだわりだったのでしょうね。
 個性的な人物が多いといわれる一期生の中でも「ひとしちゃん」は群を抜いていました。「ひとしちゃん」の印象を一期生の誰に聞いても、いたずら小僧のようなどんぐり眼と無類の議論好きと言うでしょう。そして議論は結果よりも過程をとても楽しんでいました。休み時間、放課後と「ディスカッションしようぜ」とどんぐり眼で挑んでくるのです。
 こんなことがありました。呼吸器内科の教材でNew England Journal of MedicineのCPC(Clinico-pathological conference)が使われていました。提示されたある症例について私は肺癌を、「ひとしちゃん」は肺結核を疑いました。約1時間にわたり二人で自らの診断の根拠を述べ、相手の診断根拠の薄いところを見つけ言い合いました。ポリクリの学生二人の議論ですから今脇で見ていたら陳腐な「ディスカッション」だったでしょうがね。結局結論は出ず、私が根つき「じゃ、ひとしちゃんの言うように結核でいいよ」と言ったところ、「ひとしちゃん」は「でも俺は肺癌だと思う」とどんぐり眼で「にこっ」と笑いながらさらっと言うのです。このどんぐり眼の「にこっ」で議論に勝っても負けてもノーサイドとなり、「飯でも食いに行くか」となるのです。ですからこの時の事もディスカッションした事は良く覚えていますが、CPCの正解は忘れてしまっています。学生時代6年間親しく楽しく「ひとしちゃん」と過ごせたのはこの個性があったからだと思います。理屈っぽいけれど憎めない人物でした。
 この「ひとしちゃん」の笑顔と議論好きが個性的な一期生をまとめるのにはぴったりでした。我々のために学務課に乗り込んで試験の日程を替えてもらったり、教授室に行き試験問題を聞き出してきたり。でも「ひとしちゃん」だからこそそれができたし、許されていました。学年委員になり我々をまとめ上げ、一期生の医師国家試験対策や卒業に関わるもろもろの事にも尽力しました。「ひとしちゃん」が初代同窓会長となった時には全くうってつけの人選と思いました。
あれから30年地域医療に貢献するため立派な診療所を建てられ軌道に乗ったと聞いておりましたが、道半ばにして亡くなられさぞかし残念な思いをしている事でしょう。残された一期生をはじめとして星医会会員がそれぞれ精一杯生き抜き医療に真剣に立ち向かうことが、「ひとしちゃん」の遺志を継ぐことになると思います。「ひとしちゃん」が安らかに眠られることを衷心よりお祈りいたしまして私のお別れの言葉といたします。


斉藤 斉初代会長を偲んで
星医会会長 金渕 一雄(2期生)

 先生は、1974年に新設された東海大学医学部に入学され、学生時代はテニス部に所属し、バイクとジェミニを愛車とし、休み時間や放課後には議論(ディスカッション)が大好きな湘南ボーイであった姿が思い出されます。1980年に第1期生として62名の仲間とともに卒業され、内科で研修を開始し、その後神経内科に所属し診療、研究、教育に熱心に働いていました。
1期生として卒業前から、同窓会の必要性を考えていた斉藤先生は、卒業後の4月には同窓会を設立し、初代会長として、役員とともに(忙しい研修医でしたが)年度末の3月29日に第1回同窓会総会を開催しております。
会報も1981年7月に創刊し、当時の松前重義総長、佐々木正五医学部長、五島雄一郎病院長、高木敏之東海大学同窓会長のお言葉とともに斉藤先生が、同窓会運営にかんする基本方針として、会員名簿の作成と発行、毎年同窓会総会を開催し、毎年会報を発行することが述べられていました。その後10〜12号の会報で当時の佐々木正五医学部長や五島雄一郎病院長、松前達郎総長と医学部や星医会の将来について積極的に対談を行っていました。
同窓会総会は、本年30周年の記念式典と講演が無事終了し、卒業生、新旧教職員、東海大学同窓会、学部・学科別同窓会、全国私立医科大学同窓会の役員など含めて300名が参加しており、斉藤先生が30年前に植えた苗が大きく成長しております。
昨年末に依頼していた30周年記念誌の原稿を受け取っておりますが、これが絶筆となったことは残念でなりません。
 斉藤先生は15年間会長として、我々を引っ張り続け、1994年に会長職を中瀬古二郎先生と交代されました。その後平塚で入院設備をそなえて開業され、地域医療に活躍されていましたが、同窓会30周年を迎えた年に若くして突然亡くなられたことは、非常に残念です。
 これからの星医会を先に天国に旅立った会員の皆さんとディスカッションしながら温かく見守ってください。御冥福をお祈りいたします。



▲ページのトップへ




榊原健一先生を偲んで
松本医院 松本 雅彦(1期生)

 榊原健一君が突然入院したと連絡があり、その後亡くなったと聞き信じられない思いでいます。健一君とは東海大学医学部入学が同期で、実家が同じ埼玉ということもあって、親しくさせてもらいました。まだ医学部1年生か2年生のとき、健一君と二人で新潟の石打スキー場に泊りでスキーに行ったのを思い出します。前の晩、健一君の実家(旧大宮市、現さいたま市=現在私が開業している所)に泊り、朝早く車で国道17号を走ってスキー場に行きました。どちらの車で行ったかは記憶が定かではありませんが、二人とも雪道の運転は初めてで、 タイヤチェーンを付けたのもその時が初めてだったと思います。健一君の実家はお父さんが開業されていて、お母さんが看護婦さんで医院を手伝っていました。スキーの前の晩に泊めていただいたときに初めて健一君のご両親にお会いしました.その時の縁が今でも続くことになります。その後も、健一君とは一緒に当時流行っていた六本木のディスコに行ったり、TOB(tournament of beginners)という一期生のゴルフの会でゴルフをしたりしました。健一君は今で言う「いけめん」でディスコなどでは女の子によくもてました。しゃべらなければモデルか俳優と言っても誰も疑わないかもしれません。ゴルフの方はまるで初心者で、ドライバーは90度スライスし、左の林に向かって打つとフェアウエーに行くといった感じでした。二人で健一君の実家近くの河川敷にあるゴルフ場でラウンドしたのは良い思い出です。また、あるゴルフ場では二人でOB連発し、途中でボールが無くなって、プレイ続行不能になりそうな時もありました。
その後は、学年が違ってしまったこともあって一時疎遠となった時もありましたが、卒業して医局が故三輪教授の第六内科で一緒になり、再び交流するようになりました。その頃、健一君は実家の医院は継がないようなことを言っていて、私が海老名総合病院に出向している時に、突然健一君のお父さんから電話があり、自分は引退するので医院を健一の代わりにやってくれないかと言われました。健一君のお父さんとはスキーの前の晩に会ったきりで、突然の電話でびっくりしましたが、何回か会って話を聞くうちにお引き受けしました。健一君のお父さんは、以前に会った私の事を憶えていて電話をしていただいたのか、健一君が助言してくれたのかはわかりませんでしたが、私の実家が健一君の実家と車で20分くらいと近く、将来私が両親の面倒を見るには都合が良いと思い決断しました。
開業後は、健一君のご両親とは今でも連絡を取っています。逆に健一君とは何時しか年賀状を出しても戻ってくるようになり、どうしたのかと心配していました。うわさでは体調を崩されたと聞きいていましたが、まさか突然このような訃報を聞くとは思っていませんでした。健一君のご両親も高齢となり、一人息子を亡くした今相当にショックを受けておられ、健一君に代わってできるだけお力になれたらと考えています。


原 唯純先生を偲んで
宮本 壮(4期生)

 昭和58年に東海大学を卒業した本学4期生の原唯純先生が、平成21年12月10日 午前1時15分、逝去されました。その5日前の12月5日の朝、勤めている病院に向かう途中で発症した脳幹部梗塞が原因とのことでした。私に連絡が来たのは12月8日午後8時ごろ、原先生の奥様より連絡がありました。すぐに原先生の入院している病院に行きました。原先生はICUで人工呼吸器を装着されていました。その翌々日未明に原先生は亡くなられました。53歳でした。
原先生と私は同期生で、入学、卒業、また 一緒に母校の産婦人科に入局し、研修医時代から助手採用に至るまでの昭和63年頃まで過ごしてきました。 2年間の前期研修期間が終了し、自分の進むべき道を本格的に決めるに当たり、原先生と2人でいろいろ話しあったこともありました。結局2人とも産婦人科に進み、現在に至ったわけですが、原先生が東海大学を辞められるまでは、臨床のこと、医局内でのさまざまなこと、出向についてなど、同期ということもあり気軽にいろいろ話し合える非常に大切な存在でした。
原先生はあまり器用な方ではありませんでした。どちらかというと堅実でこつこつ積み重ねるタイプでした。悪く言うなら頑固でちょっと融通がきかない面もあり、上級の先生からはちょっと使いにくいと思われ、後輩からはとっつきにくいと思われていたようです。しかし、原先生の方が私より1つ年上ではありますが、同期の私には何でも話してくれたように思います。
 昭和63年、同時に出向を終え、助手として医局に戻ってきましたが、ほどなくして原先生は慶應の産婦人科に行かれました。それまでいろいろ私には話してくれましたが、慶應に行く理由については、あまり多くを語ってくれませんでした。その後は、年に数回ですが学会などで会うようになり、お互いに近況報告などしていました。私の結婚式はもとより、私の長女が誕生すると病院までわざわざお祝いを持ってきてもらったり、私も原先生の結婚式に呼んでもらったりしておりました。
 平成15年4月、私が付属八王子病院に勤務することになり、勤務地も原先生と近くなったことで、大きな学会以外でも、地域の地方会や研究会などで会って話をする機会が増えたことは、私にとってたいへん喜ばしいことでした。
 原先生の勤務していた病院は、中央線沿いにある総合病院でした。人口も多く、近隣の産婦人科からの紹介例や、母体搬送を伴う周産期救急例も多い病院でした。母子を扱う産科救急は、それを限られた人数でこなしていくことは、かなり大変であったことは容易に想像がつきます。一週間に数日は外部からの当直をお願いしていたようですが、常勤医でなければ対応できないことも多く、ましてや原先生はナンバー2であったので、何かにつけて連絡や相談がきていたようです。当直や、セカンドコールでなくても自分が出なければならないこともあったと思います。原先生は大変真面目な性格で、一つ一つの事柄をじっくり処理していくタイプでしたので、時には要領よく数をこなさなければならない場合でも、納得がいかないと、そのことでストレスを感じているようでした。搬送された患者さんの対応や診療についても、自分の判断がよかったのかどうか、もっと良い方法があったのではないかと気にされていたそうです。そういう意味では日々の診療業務に多くの時間を割かれ、原先生は自分をケアする余裕が無かったのでしょう。まだ充分働ける年齢ですし家族を残しての死は、原先生にとってさぞかし無念だったと思います。
原先生には現在中学2年生になるお嬢さんがいらっしゃいます。掲載されている原先生の写真は、そのお嬢さんが中学に入学された時に、ご家族で記念写真を撮られたときのものからと伺っています。少し微笑んでいるような大変優しい顔をした写真ではないでしょうか。どうかこのお顔のように安らかにお休みください。もう呼ばれることはありませんから。 
心からご冥福をお祈りいたします。




▲ページのトップへ
←会報のページへ戻る