星医会 東海大学医学部同窓会
 
 会報(第44号)
 〜平成23年3月1日発行〜


◆訃報◆
三富利夫名誉教授を偲んで
池上総合病院 院長 町村 貴郎(1期生)

 東海大学医学部外科学教室の初代教授、三富利夫先生。
 外科学教室の礎を築かれ、1期生の私をはじめ、その後多くの卒業生を1人前の外科医に育てていただきました。東海大学医学部の卒業生を代表しあらためて感謝をささげます。
 私の三富先生の思い出は、学生時代からはじまり、外科の研修医として育てていただき、その後さらに食道疾患の診療に携わらせていただいた事から、あまりにも多く、その一つ一つ場面が昨日のことのように思い出されます。
その一つには、毎週行われた先生の教授回診があります。プレゼンテーションは、当時、研修医であった我々の担当でした。先生の回診は、これが外科の回診かと思われるほど、患者さんの病態生理、特に免疫状態についての質問が多かったとおもいます。次はきちんと説明できるようにと準備をするのですが、通常の知識ではなかなか難解な問いであったため、研修医にとっては、背中に汗がつたわるのを感じるほどの緊張の連続でありました。先生は、あきらめずいつもしどろもどろの研修医に、丁寧にヒントを与えて下さいました。患者さん一人一人の診療の中から、新たな発見がないか、それを常に追求する科学的な目を忘れないようにとの教えであったと思います。先生は、まさにメスを持った内科医、理論派の外科医でありました。
また先生は、人を育てる事がお上手でした。先生のもとに集まった医局員は、先生が作られた自由闊達な医局の雰囲気の中、多くの優秀な外科医としてのびのびと育ち、東海大学外科学教室は、今大輪の花を咲かせております。当時は気づきませんでしたが、初代教授として新しい教室を盛り上げるために、大変な御苦労をされたのだと思います。  常に紳士であり、外科を愛し、優しく時には厳しく外科医のロマンを私たちに教えていただいた先生。今後も長きにわたり御指導いただけるものと思っておりましたのに、非常に残念です。
 先生のおつくりになられた東海大学医学部外科学教室に所属した医局員は、みな外科医という確かな軸足を持って今後も多方面で活躍して参ります。
三富利夫先生、今まで多くの御指導をいただき有難うございました。
どうぞ安らかにお眠りください。



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三富利夫先生を偲んで
池田 正見(2期生)

 平成22年9月3日。診療を開始した直後、三富先生の急逝を知らせる電話連絡をいただいた。患者を前にすべての動きが一瞬止まった感じがした。直属の師であり親とも言える人の訃報である。気を取り直しその日の診療をこなしたが色々なことが思い出された一日であった。
 私は学生の頃より一般外科医志望であり、いずれは継承を考えていたが医学部学生のころから三富先生の立ち居振る舞いは憧れであった。入局願いに訪れた時の三富先生の笑顔は忘れられない。また、やや上目づかいに「外科医とは・・・」を語る先生の姿も30年を過ぎた現在脳裏に焼き付いている。ご存知の通り東海大学第2外科は5年目のチーフレジデントに向け、1.2年目は一般外科、心臓血管外科、呼吸器外科、脳神経外科、病理、麻酔科、消化器内科等をローテンションし、3年目は他病院へ出向し外科の修練をする。4年目は番頭としてチーフレジデントを支え病棟に張り付き、術前術後管理に当たり、出向もする。そして5年目、晴れてチーフレジデントとして手術に明け暮れる日々を過ごす。この間の三富先生は絶対的存在であり、患者に関する診断、治療、その結果に関しては大変厳しく毎週月曜日の教授回診やカンファレンスでの質疑応答は冷汗ものであった。チーフレジデント最後の手術は私が術者、三富先生が第1助手を務めていただき胆嚢摘出術を行った。「よろしくお願いいたします」と正中切開のメスを手にした時、手が震えていた事が思い出される。「池田も手が震えるのか?」「ちょっと緊張しております」「そうか、よし始めよう」手術は無事終了し「よし、チーフ卒業だな」この時の感激は忘れられない。その後小児外科をローテーションしたが、小児外科だけでなく所謂ターミナルの患者さんも持たせていただき70名くらい回診でのプレゼンテーションをしたが「チーフが終わっても大変だな」と声をかけていただき恐縮した事も忘れられない。その後私は出向が多く、教室に帰るたびに 「外科は何処にいても勉強はできる。1症例を大切に励みなさい。」と厳しいながらも父親のような存在でした。
「鬼手仏心」という言葉がありますが、まさしくこれを教えていただいた師でありました。
 今年より、三富先生、正津先生が第2外科、第1外科の垣根をはらい外科学教室同窓会の「刀鴎会」をつくられ、その会長に就くこととなりました。これから色々なことをご教示していただきたく思っていた矢先の訃報に残念でなりません。最後にお会いしたのが第35回星医会記念式典でありました。写真に写っておられる先生のお姿から今回の訃報は信じられません。星医会にとりましてもまだまだご教示願いたかった恩師です。
思い出や、願いは尽きませんが、今までのご指導に心より感謝申し上げるとともに先生に教えていただいた色々なことを今後の診療に生かし、患者さんのため、地域医療、外科学教室、星医会等々のため頑張ってまいります事をお誓い致します。
 最後に、本当にありがとうございました。ご冥福をお祈り申し上げます。        合掌



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三富利夫教授を偲んで
大谷 泰雄(2期生)

 2010年9月3日に、旧外科学II(現在の消化器外科、乳腺内分泌外科、小児外科)の初代教授の三富利夫先生が逝去されました。卒業生で、外科の三富教授を知らない先生はいないと思いますが、2期生として学生時代から研修医、スタッフとして三富外科の教育を受け継ぐものとして、三富先生を偲んで思い出を書きたいと思います。
 私が6年生になり卒業後に何処に行こうかと考えているころ、いろいろな科の説明会や宴会に参加しました。当時、外科学IIの田島助教授は説明会で外科は厳しいチーフ・レジデント制を行っておりたくさんの人はいらないと言っていました。外科IIに入局しようか、どうしようかと考えていた頃、他の三輪教授の内科VI、河村教授の泌尿器科、長田教授の形成外科などの宴会に行くと、外科のチーフ・レジデントを終わってからでもいつでも歓迎すると言われ、厳しい三富教授の外科を選択しました。
 外科のレジデントは、今から思えば、当直が多く、土日もなく、手術もほとんど入れてもらえず、非常に厳しい状況でしたが、点滴と患者管理と急患に対する対処だけは自信になりました。そして、レジデント5年目の4ヶ月間はチーフ・レジデントとして、旧8B病棟の約50床と夜間の救急を任され、毎日のように術者として手術をさせていただきました。この米国の外科のレジデント・システムをお手本とした教育が、旧外科学IIの最大の特徴であり、このシステムの主宰者が三富先生でした。
 三富先生で強烈に、今でも思い出すことはたくさんありますが、いくつかあげてみます。
@卒業6年目でスタッフとなり、湯河原厚生年金病院へ卒後3年目のレジデントと一緒に派遣されました。そこの外科部長の診療があまりにも患者様のためにならないので、派遣された1か月目に治療方針に抵抗し大喧嘩になり、部長に大谷君はもういらないと言われてしまいした。毎週のように研究日に教授室にお邪魔し、レポートの提出と“反面教師”だからよく勉強しておくようにと毎回言われました。結局、そこの派遣は1年で中止となりました。
A卒業8年目に救命救急に1年間派遣された時に、自衛隊からの要請で、硫黄島の南の海上でカジキマグロに胸を刺されたという急患がでて、その当時の救命救急の上田助教授に言われ、現病院長の猪口先生と自衛隊の飛行機で現場海域に救助に向かい、無事帰還した時に、三富先生の教授室に呼ばれました。君を外科医にするのにどのくらいかかっているか知っているか、その当時事故にあったら病院からは保証もほとんどなかったようで、教授に相談もなしに勝手なことするんじゃないと、静かに怒られてしまいました。
 卒業後約30年となり、管理職や開業医として日々過ごす中で、三富先生の後輩の指導や冷静沈着な考え方、お洒落でジェントルマンな姿勢は、受け継ぎたいと思います。
 私も、8月31日をもって東海大学大磯病院を退職させていただき、9月13日から大磯の駅の近くで開業医として、スタートする時であったために、通夜にしか出席できず、不肖の弟子ですが、今までの先生の厳しいご指導に深く感謝し、心よりご冥福をお祈り申し上げます。



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三富利夫先生を偲んで
津久井 優(3期生)

 金渕先生から三富先生の追悼文をとお話をいただきました。理由は私が2年生の時から所属していた自動車部の部長として三富先生にお世話になっていたからと言うことでしたが正直、自動車部員としてよりも、卒業して外科医としての研修を始めてから現在まで、人生の半分以上の時間を通して、私ほど、三富先生にお手数をかけさせた不肖の弟子はいないのではないか。不肖の弟子として三富先生への感謝の気持ちを表す機会としてお話をお受けした次第です。
 私が外科医を志望した理由はいろいろとありますが、特に東海大の外科で研修をと考えたのは自動車部の会で三富先生が言われた「外科の前期研修医の到達点は何日も眠らずに働けること、後期研修医はその上で正確な判断ができること、助手(助教)以上はさらに患者、研修医に責任が持てること」という目標が私にとってとても判りやすいという単純な理由でした。
 外科研修医となり4年目に出向先から大学に戻った途端に教授回診の洗礼を受けて以来
どれほど腋の下に冷たい汗が流れたことか。不勉強な私にとっては教授回診が終わると1週間が終わったような気になったものです。ちょうどその1年前に心筋梗塞を患われ教授回診を隔週で再開された頃なのに三富先生の回診は特別病棟から小児外科まで時には150人を超す患者の回診を精力的にされ、とても病み上がりの人とは思えぬもので、それも特に私の知識が足りないことを思い知らしてくれるためのものであったと思われます。冷たい汗は教授回診に限ったことではなく、応募前の学会抄録のチェック、予演会、出向中の病院での症例のプレゼンテーション等等。枚挙に暇がありません。すべての医局員に同様のことをしていたら身体も時間もたりなくなるはずで、恐らく私がターゲットであったと思います。このような冷たい汗を流しながら三富先生から頂いた財産の一つは事を成すための戦略の立て方で(まだ自分のものとして消化しきれてはいないが)1つのことを始めるためにはこれに関係することすべてを解析しなければならないということ。例えば手術を例に取れば術式だけではなく、手術器械の1つ1つ、麻酔、助手の立ち居地・所作、直接・間接介助の看護師の動き、術後管理(看護師の観察項目も含めて)など、走りながら考えるのではなく走る前から何歩目はどこについて、ゴールは何歩目のどちらの足になって、ゴールを過ぎてその夜の宴会の段取りまで考えるのが手術であるというのが三富先生の考え方なのです(と思っている)。大学退職後もセコメディック病院でさらに4年の補習授業もしていただき、現在の職場で仕事をしていられるのも三富先生のお陰です。不肖の弟子として、この場をお借りして今までのご指導に対し感謝するとともに、心からご冥福をお祈りします。



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三富利夫先生を偲んで
添田 仁一(5期生)

 三富利夫先生が主宰されていた、東海大学医学部外科学教室Uの門をたたいて26年の歳月が流れました。2年前に田舎で開業するまでの24年間は大学で、名誉教授になられてからも先生には公私共に大変お世話になりました。最近まで、学問だけでなく人生に対しても先生の教えを受けた者として、先生のご逝去の報に接し、いまだに深い悲しみを感じております。
 失礼を承知で、生前の先生を一言で申し上げるなら、ダンディーで自分のスタイルを確立していた臨床医であり学者であったと言えるかもしれません。もちろんスタイルというのは容姿だけでなくその生き方、考え方を含め、その人間の哲学が色濃く反映したもので、先生のスタイルは毅然として美しく品格の高いものでした。厳しくもありながら優しく、理想的でありながら現実的で、ときに世俗的でありながらそれを超越する姿勢と力を持った、清濁併せ呑む許容の大きさと、絶妙なバランス感覚を感じさせました。今でも私の目標であり憧れであります。
 毎週月曜日の教授回診は150人前後の入院患者を全て診るもので、3、4時間もかかるハードなものでしたが、先生は休むことなくこなされておりました。その後は医局会で、終了が9、10時になることも稀ではありませんでしたので、大変な労力であったとお察しいたします。電解質の投与量まで厳密に指摘されるきびしい回診でしたので、医局員はかなりの緊張を強いられましたが、私は病棟の廊下や、
10階から4階までものすごいスピードで階段を駆け下りる間に、先生が話されるワンポイント・レッスン的なコメントが大好きで、毎週の回診を密かに楽しみにしておりました。クリニカル・クラークシップが医局員になかなか理解されずに私が困っている時は「添田、言い続けることだよ。」「即断、即決はけして良いものではないよ」などなどたくさんの言葉が心に残っております。
 優秀な弟子を創る教授は大教授であると言われており、三富外科からはキラ星のごとく優秀な教授が数多く輩出しております。残念ながら私は不肖の弟子でしたが、こうやって田舎で地域医療に邁進できるのも三富外科での経験と、先生の長きに渡るご指導のおかげと深く感謝しております。
三富先生は永遠に私のあこがれであります。先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。



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