星医会 東海大学医学部同窓会
 
 会報(第45号)
 〜平成23年9月1日発行〜


特集

東日本大震災〜被災に立ち向かった同窓生〜
石巻の精神科医が体験した東日本大震災
宮城クリニック院長 宮城 秀晃(4期)

 震災からの3ヶ月間で行動できたことは、東海大学で学んだことを少しでも役に立てられたことと、同窓生の皆さんから沢山の支援と励ましをうけたことによるものでこの場を借りてお礼を申し上げます。

1.クリニック2階での3泊4日の自らの避難生活
 地震後にクリニックから1.5Km離れた北上川の貞山運河からじわじわと水が溢れだし道路から1.3mの高さまで浸水し、周囲は水の中に住宅が浮かんでいるように見えました。クリニック内の1階は80cmまで床上浸水しガレージの自家用車も浸水のため3台全て廃車となってしまいました。2階のデイケアーのスペースでも本棚、ピアノなども倒れてしまいました。当日、帰宅できなかった自院の患者さん5〜6名、医療スタッフに加えて避難所に向かった住民が胸までの水で歩行できずに、夜に開けていた玄関からランプの明かりがついた2階を目当てに避難してきました。ずぶぬれの人をデイケアー用バレーボールチームの衣類に着替えさせて、反射式石油ストーブとキャンプで使用していた寝袋などで暖をとりながら、20名が3日間避難生活を過ごしました。断水停電の中で、2003年の北部地震を経験していたので地震に備えて水やご飯レトルト食品、ガスコンロとボンベ、懐中電灯、ラジオなど2セットをガレージの2階に備蓄していたものを取り出して、1食を3人分に分けて、食器はラップをまいて使用しました。雪が降りかなり寒かったのですが、4日目にやっと道路の水が減ったのでゴムボートでやってきた自衛隊や警察に収容していた皆さんを避難所に運んでもらいました。私は、医師会との連絡はとれず、停電でテレビや固定電話も携帯電話もつながらず、石巻が震災でどのように破壊されたのかも不明でしたが、自院に残っている使用可能な薬剤をもって自転車で中里小学校にいる避難者の救護活動に向かいました。
2.避難所(中里小学校)における救護活動(3月中旬)
 小学校には、1200名が24の教室に分かれて避難していました。昼間は子どもと老人が残っており、親は水が退けた自宅の地震浸水状況を確認し自宅を片づけにいっていました。救援物資はなく、近所のスーパーや商店が供出してくれた食品や果実を24クラス毎に配分して校長先生をリーダーとして各班長で平等になるように分配していました。避難所で探したら、4人の看護師さんがボランティアとして手伝ってくれましたので、小学校の先生方と共同で、病気の避難者のトリアージをしました。保健室を救護所にして、自力で来所できる人と教室に往診に行かなければならない人(老人ホームの寝たきり避難者など)に分けて、クリニックから輸液を持ってきて一人で診療を行いました。2週間診療していましたが、最初の4日間は、2階に自院があり浸水をまぬがれ診療していた近所の小児科の開業医(中山Dr)に応援を頼みました。避難所では小学4年生(看護師の甥)が、学校内の教室を案内してくれて看護助手の役割を担ってくれました。1週間後にはやっと内陸からの炊き出しで温かいカレーを1皿食べることができました(ご相伴にあづかりました)。断水が続いていたので自衛隊が給水に毎日来てくれました。
3.自院復興と精神科往診(日赤医療チーム及び心のケアーチームとの連携)
 その後電気・水道も復旧しましたが、かなりの医院や病院が津波で流され破壊されており、このままでは石巻の医療が停滞してしまうという思いがあり、家族、スタッフや石巻高校の娘の同級生たちの協力で泥をかぶった薬を拭いて、水にかぶったカルテを乾かし、診療用品用具を1階から2階に運んで、3月22日から無理やり宮城クリニックの2階で診療を再開しました。自転車で市内の被災状況を観察に出かけていましたが、その後仙台から宮城県精神科神経科診療所協会会長と副会長の先生がきて車を貸してくれたので、やっと機動力がつきました。その後は石巻日赤病院にも行けるようになって、朝夕のミーティングにも参加できるようになりました。DMAT、JMATなど東海大学病院からの医療支援チームとも会うことができました。精神科が無い石巻日赤での診療を非常勤で月1回行っていたので、東北大学のドクター達と一緒に「心のケアーチーム」を立ち上げて、午前中は自院で診療、午後は車で各地域の避難所を巡回できるようになりました。「子供たちに笑顔を取り戻すことが、大人の元気につながるだろう」と考えて、大人や学生は自宅のがれき撤去に行っているため、避難所に残っている就学前後の子供たちをバルーンアート、楽器などで遊ばせながら毎日診療をしていました。そのうち蛇田小学校などに交代で医療支援を行っていた守田、長井、藤林、本多、今岡先生などの東海大学病院チームとも会いました。訪問看護のキャンナス(代表:菅原さん東海大医療短大1期生)や谷亀先生、金渕先生、精神科の河野先生も支援に来てくれました。また小児科の林先生と松田先生は大磯からキャンピングカーで駆けつけバーベキューをしてくれました。
4.東海大セットの思いつき (メーリング・物資の集配)
 各地の避難所を巡回しているうちに、毎日往復して自宅の片づけをしている多くの住民から「自宅で煮たきができれば、2階で生活しながら1階の復旧を一日中できて都合がよい」との声があり、東海大学セット(@カセットコンロ・ボンベ、A懐中電灯・電池・ロウソク、Bヤカンまたはナベ、C1人2日分の食糧、Dブルーシート・タオル)を思いつきました。
 宮崎の萩原先生を中心とした九州支部合同メーリングリストや谷亀先生が中心の4期生メーリングリスト、東海大学精神科同窓会、星医会などを利用して、宮城クリニックへセットを送ってもらうことにしました。50セット目標でしたが、東海大学関係で200セット、姪の友人や日精診関係を加えると500セット近く集まりましたので、自宅に帰りたい避難所の人々で希望する人に配りました。
 今回の経験から、「ブルーシート、懐中電灯、ラジオ、電池、ウエットティシュ、即乾性消毒液、無洗米、水、レトルト食品、トイレットペーパー、ティシュペーパー、食器、サランラップ、ガスコンロ、ガスボンベ、給水を入れる袋、ビニール袋(大小)」をプラスチックケースに入れて、常備してください。
 全国から毎日、石巻日赤に送られてくる沢山の物資は、医師や事務職員も救急診療に忙しく病院からの配送手段がないために、倉庫にたまってしまう状況で、ライフラインや役所、医師会なども崩壊した石巻での状況を考え、今後は被災地での配送手段を考えておく必要があります。 5.宮クリサポートボランティアチームとの活動
 家族や姪と仲間たちが東京からきて宮クリ(宮城クリニック)サポートチームをつくり、4台の車を使って宮クリ市場を開いて毛布、おむつ、ミルク、乾電池などの救援物資を配ってもらいました。
6.日精診チームとの活動 (日本精神科診療所協会)
協会の会長が来て相談した結果、当院2階を石巻地域の拠点として使用し、ミーティングをしながら全国
から医師、看護師CP、ケースワーカなどのチームが2組で来石し、診療にあたっています。土日のイベント会場やがれきの中でも日本精神神経科診療所協会移動診察室を開設しています。



 最後に、このように3ヶ月間、皆さんの力をお借りして動いてきました。本来、阪神中越地震では、1ヶ月が急性期でその後復興しながら慢性期に移行し、PTSDもでてきたそうです。今回は3ヶ月たっておりますが、ほとんど震災直後と変わっていないところが多いので、まだ急性期が続いているような状態です。大変申し訳ないのですが、これからもっともっと皆さんの力を借りる場面がででくる様に思えます。今までもいっぱいお世話になったのでさらに申し上げるのは心苦しいのですがすが、今後も支援をお願いしたいと思います。


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燃ゆる気仙沼を経験して
志田整形外科医院院長 志田 章(8期生)

 同窓会で皆様の前でお話をさせていただきしましたが、話す内容がまとまらないまま終わってしまいました。文字として残ることになりましたので、改めてまとめさせていただきます。まず、今回このような機会を作っていただきました、同窓会会長金渕先生および役員の皆様に感謝いたします。当日話しませんでしたが、テニス部の6期生松林祐司先生にもこの場をお借りし、御礼いたします。わざわざ松本から軽トラックを仙台まで運転し届けていただきました。車を津波で流されてしまった私にとって本当に助かっております。
 津波当日、地震の後、津波警報が出たとき決して気仙沼の人々は避難していなかったわけではありません。昨年のチリの津波の時はゴーストタウンになりました。今回も道は避難する車で渋滞していました。やはり予想を超えた津波だったのです。私は、帰れない患者さんがいたために、避難させるという判断が遅れました。結果的に自分の診療所からは避難できなかったのです。判断ミスです。もっと速く避難の判断をすべきでした。しかし結果的にこの判断ミスが、患者さん、職員、自分を助けました。父が昭和47年に建てた、コンクリートの建物が私を救ってくれました。建物が津波に耐えてくれました。そしてその後に発生した火災からもガラスが今にも割れ、炎が入ってくる寸前で、隣で燃えていた建物が崩落し、助かりました。車で避難してそのまま津波に巻き込まれた人々もたくさんいます。どの判断が正しかったのか誰にもわかりません。生き延びた人々の判断が正しかったのかもわかりません。当日56名が避難しておりました。医者というものは因果なもので、死ななければどうやって生き延びようかと考えるものです。どうしたら水を確保できるか。水洗トイレのタンクの水、待合室のあった自動販売機を壊して飲み物を手に入れよう等。2日後に東京消防庁のヘリコプターに救助されました。避難所に行けばいったで何かはしなければならない。そう思って動いていました。実際、施設から運ばれてきた高齢の方が亡くなりました。看取る以外何もできませんでした。それでも私の職員たちがおむつ交換等できることをしてくれたことを感謝しております。


 医師は仕事場では名札以外自分を証明するものを身につけていないことが多いと思います。地元の新聞に書いてありましたが、南三陸町志津川病院のスタッフたちは津波がせまってきたときに看護師は腕に自分の名を書き、医師は結婚指輪をはめたそうです。今は身分を証明するものを身につけておくことが重要なことだと感じております。私も流されなかった結婚指輪を、今は常につけております。恐怖というものは当時あまり感じませんでした。自分は患者を診る立場からPTSDとは縁はないだろうと思っていました。しかし、最近になって当日の恐怖を思い出しました。今でも、なんで生きのびているのだろうと思うこともあります。PTSDの患者さんがなんで自分だけ生きているだろうといっていたことが少しわかったような気がしました。やはりそれほどの衝撃でした。本当に多くの皆様に助けられました。最近、涙もろくなった自分がいることも、事実です。人の暖かさが身にしみます。
 まだまだ被災地では大変な状況が続いています。幸い私は人的に被害を受けませんでした。未だにご家族が見つかっていない方もたくさんおられます。その方たちは本当に立ち直ることができるか心配です。今となっては生き残った以上、家族もみんな無事なのでやるしかないと思っています。今後も多くの皆様のお力添えをいただきながら、生きていければと考えております。結婚式の祝辞でよく話していました。毎日が平凡であることが一番幸せなんだということを。今改めてそれを実感しております。同窓会の皆様も日々をお体大切にお過ごしくださいますようお祈りいたします。

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原発事故による強制避難
水谷消化器科外科医院院長 水谷 郷一(4期生)

 震災から4ヶ月がたとうとしていますが、一向に収束の兆しの見えない福島第一原子力発電所の事故により、約10万人の福島県民が避難を強いられ流浪の民に追いやられています。
 特に原発が立地している福島県双葉郡約7万5千人のほとんどの住民は、震災2日目には強制避難となり、全国に散り散りになり、現在も肉体的にも精神的にも厳しい状況に追い込まれています。
 私の自宅と診療所は、福島第一原子力発電所から約10q離れた、双葉郡富岡町の駅から徒歩約3分の所にあります。震災当日の3月11日の午前中は通常の外来をやりながら、予約されていた上部内視鏡検査の患者さんを3人程施行し、午後からは主に検診業務を行っていました。そして2階の院長室で休憩をとっていた時に地震が発生しました。今まで経験したことのない激しく周期の短い横揺れがおこり、上からビン類が落ちてきて目の前で割れました。急いで1階に下りてみると幸いにも従業員は全員無事でしたが、カルテ庫や机の上の書類はすべて落下していました。診療所と自宅をつなぐ通路の屋根は落下してきた瓦によって穴が開いていました。自宅にいってみると妻は無事でしたが、足の踏み場もないほど物が落下し散乱していました。壁紙には亀裂がはいり、貼り付けていた板は剥がれ白い粉が部屋中に充満していました。電気も水道も止まり激しい余震もつづいていたため診療不能と判断し、あとかたづけをしていた従業員を全員帰宅させました。その頃津波が町を襲い駅舎を押し流していたことは、屋内にいたためその時はわかりませんでした。高い台地にあったため難を逃れたのでした。
 完全に被災したことを自覚しました。しかし不自由でも数日で診療は再開できると思っていました。しかしその日の内に原発事故により屋内退避命令が放送され、翌日早朝には約25q離れた川内村への避難命令がでました。妻と近所の方を車に乗せて川内村の中学校の体育館に避難しました。避難してきた人たちは、私も含めて2〜3日で帰宅できると思っていたため、ほとんど着の身着のままでした。原発事故の正確な情報は住民には何も知らされていませんでした。
 毛布一枚で寒さに震えながら一夜をあかし、翌3月13日と14日は要請により村の診療所で避難住民の診療を行いました。かかりつけの患者も沢山いて、みんな私がいることを知って安心し、私もやりがいを感じながら診療にあたっていました。しかし水素爆発がつづき、村の診療所も閉鎖されることになり、もっと遠くに避難することを周囲から強く勧められたため、3月15日に妻と妻の実家のある、いわき市に車で移動しました。多くの患者さんたちを含む町の住民を置いて移動することは非常に心苦しく、前日の夜は一睡もできませんでした。医師になってから最もつらい決断でした。
 その後二次避難したいわき市も風評被害により食料が不足し、水もでないため震災から1週間目の3月18日に、その日から再開した東京までの高速バスに妻と妻の両親の4人で乗り、神奈川県茅ケ崎市の叔母に東京のホテルを予約してもらい移動することができました。その後は茅ケ崎の叔母の家に3週間程お世話になったりして、4月17日から6か所目の避難先として、昔住み慣れた伊勢原に移り現在に至っています。
 先日6月1日に、震災で避難して以来80日振りに妻と一時帰宅しました。防護服を着て線量計やGMサーベイメータを持って入った故郷は3月11日のまま時間が完全に止まっていました。
 放射性物質で汚染された故郷は、復旧復興から完全に取り残されています。頑張りたくても頑張れない状態がつづいています。
 充実していた開業医としての仕事をすべて失い、強い喪失感に襲われる時があります。しかし津波で家を完全に流されたり、肉親を失ったりして、私よりもっとつらい状況にある避難者も多くいます。
 原発事故が収束しても、もとの生活にはもどれないと覚悟はしていますが、なんらかの形で、将来地元で診療を再開したいと思っています。
 最後に、今回の震災後多くの星医会会員の皆様、東海大学外科同窓会の皆様に御心配をいただき本当に感謝しております。誌面を借りてお礼を申し上げたいと思います。

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東日本大震災後のご支援に感謝して
―釜石のぞみ病院からの報告―

医療法人仁医会 釜石のぞみ病院 理事長 鹿野亮一郎(6期生)

 まず、文頭にこの度の「東日本大震災」において、星医会会長の金渕先生を始めとした諸会員の皆様に大変お世話になりました事を心より御礼申し上げます。金渕先生のご配慮により、星医会の皆様方から多くの支援物資、激励のお便りを頂きました。卒業以来、お会いしていなかった皆様からも多くの激励を頂き胸が熱くなる思いでした。本当にありがとうございました。また、今回の震災により、幸いにして患者さんの犠牲はなかったものの、約300名の職員中、死亡2名、住宅が流失または全半壊した職員、家族を失った職員は、およそ60名となりました。これらの職員の多くは、現在も避難所や仮設住宅に仮住まいをしておりますが、皆様からお寄せいただきました支援物資や義援金は、これら職員やその御家族に配給する事が出来ました事をこの場をお借りしまして、あらためてご報告させていただきます。被災した職員に代わり御礼を申し上げます。
 私どもの法人を簡単にご説明いたしますと、岩手県内で3つの病院を運営しており、岩手県盛岡市に精神科の都南病院、岩手県の釜石市に内科、外科、婦人科、眼科の釜石のぞみ病院、同じく精神科の釜石厚生病院があります。このうち、今回大きな被害を受けたのは釜石のぞみ病院です。釜石のぞみ病院は、釜石港のそばの丘の中腹に位置しており、在宅訪問診療所とタイアップし地域医療に特化した運営を行っている病院です。医局は、岩手医大、金沢医大、東北大の出身の先生が中心で、残念ながら本学御出身の先生はいらっしゃいません。
 それでは、震災当日の出来事を少し御紹介します。
 3月11日、当日は、地震直後から停電になりましたが、自家発電機が動いており通常通りに病院は機能していました。しかし、30分後、けたたましいサイレンの音が響き渡る中、津波が瞬く間に押し寄せ1階は完全に水没。1階に設置していた非常用発電機も使用不能となり、電気、ガス、水道、全てストップし、エレベーター、空調、医療機器、全てが使えなくなり病院は8階建ての大きな箱と化しました。さらに、病院の周囲には大量のがれきが積み上がり、市の中心部もがれきに埋め尽くされ交通も麻痺しました。外来、入院の患者さんはすべて4階以上に避難してもらい、さらに1階の玄関屋根や2階のデッキでは流れ着いた人たちの救助や、近隣の商店街から逃げてきた人達の誘導などが大混乱の中、行われました。当日の気温は10度前後、海水温は15度前後、このため、水の中から救出された方々は、ことごとく低体温症の症状があり、さらにヘドロの混じった海水を飲み込んでおり、嘔吐と震えの止まらない方がほとんどだったようです。また、病院までもう少しのところで、波にさらわれていった方も多くいらっしゃったそうです。
 夕方になり、気温が下がり周辺の高台に逃げていた住民達も病院裏の避難通路を通り、続々と病院内に避難されてきました。院内は足の踏み場もないほどの人達であふれ、この中には、釜石保育園の園児たち数十人も避難してきていました。このため、医局、病室、ナースステーションも開放しましたが、それでも足りず、停電で真っ暗な建物の中、数えきれない人達が肩を寄せ合うようにして座っていました。その後も、小規模の津波が繰り返し襲来し、病院からがれきを乗り越えて外に出ようとしても、直ぐに避難指示が出て引き返す事の繰り返しでした。深夜になっても、避難してくる方々が絶えませんでした。その中に赤ちゃんを抱っこした、ご夫婦がびしょぬれで震えながら院内に入って来られました。そのご夫婦は、家の中で津波に襲われ、生後数か月の赤ん坊が濡れないようにと胸まで水に浸かりながら、交代で頭の上に持ち上げていたのだそうです。職員が赤ちゃんを抱きかかえると、濡れておらず、すやすや眠っていたそうです。看護師達は、このご夫婦の幸運を喜びながら、その一方で、自分の家族の安否も分からないまま、その不安を抑えるかのように、御夫婦の低体温症の治療に一心不乱にあったっていたそうです。
 あの津波から、原稿を書いている時点で、もう4カ月が過ぎております。現在、釜石のぞみ病院は、皆様のご支援のおかげでようやく8割方機能を復旧させております。しかし、岩手、宮城沿岸部の津波被害による後遺症は甚大で、周辺市町村では基幹病院や診療所がすべて流され、無医村同然になっている地域が多数あります。これまでも人口減少、高齢化、医師不足という3拍子揃った地域でもあり、ここからの立ち直りには相当な困難が予想されます。今後も、被災地への激励と御支援をお願いしたく思います。
 最後に、星医会会長の金渕先生、星医会の先生方、御支援、本当にありがとうございました。


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“被災者であるも支援者であれという想い”
かやば小児科院長 萱場 潤(6期生)

 はじめに、今回の震災で被災した方々にお見舞いを申し上げるとともに、亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。そして多くの支援をくださった同窓の皆様に深くお礼を申し上げます。

 巨大地震、大津波、原子力災害が一度に起こりました。この状況で宮城、岩手、福島の同窓生たちが大小の被害を受けながらも一生懸命頑張っています。その一部をご紹介できたらと思い筆を執りました。
今回のような広範囲に及ぶ大規模災害では、物質的な支援は当初から混乱し滞っていました。(写真1 膨大な荷物の中から災害支援物資の選択を全て人海戦術で行っていた。)このような中では支援は心をつなぎ想いを共有することから始まっていると思います。遠方からの安否確認の電話もそうです。余震の続く中、やっと繋がった多くの電話とメールに私もおかれた立場を確認し、人として、医師として、今何かを始めなければならないと気付かされ体を動かしました。想いはすぐに繋がります。被災地では支援をする医師自身が災害を受けているにも関わらず、自身を顧みず地域へ赴き被災者へ手を差し伸べ、状況にもがき葛藤する姿が其処此処で見られました。被災に大きなショックを受け何も手につかないでいる事は恥ずべきではありません、それが当然です。医師も支援中、自身が知らずにPTSDを受傷するような状況です。このなかで私は早速診療を開始しました。早速死体の検案要請もありましたが遠慮しました。まだそこまで心に余裕はありません。まずは避難所へ赴き“地域の要としてクリニックは機能しているぞ”“さあ、かかりつけの先生が心配して来たぞ!無事な顔を見せてくれ!安心してくれ!”と自分の顔を見せる事が最初に必要と考えました。逝った者への贖罪とはなりませんが、感傷に浸る時間もありません。避難所への巡回が本格的に出来たのはそれでも1週間後でした。被災地では通行制限や車両の給油問題があります。3日後には警察署へ行き緊急通行車両の指定を受けました、これで高速や通行が制限された被災地に入る事が出来ます。燃料は入手し難く毎日数キロの列を作っていました。私は幸いにも巡回中に遭ったスタンド経営の患者さんの好意で給油ができました。一般には緊急車両でも給油に数時間を要しました。緊急指定と供に厚生労働省の薬剤輸送車両の指定があるとさらに短時間で給油できました(写真2 これがあると消防や警察と同じく高速は無料で通行でき、災害時緊急指定スタンドで優先的に燃料を入れる事が出来ます)。避難所を巡回しだすようになると、いろいろな刺激があり私自身も震災後のモヤモヤを忘れる事が出来、僅かな満足感が得られました。やはり私も急性のストレス状態にあったのだと思います。1日に回った避難所数は10数カ所に及びました。また10日目には市の急患センターの夜勤も行いました。
 この時期石巻の宮城先生(4期)や気仙沼の志田先生(8期)は被災度も遥かに重く、支援を必要としている緊急の状況下で医療を提供し続けていました。2週目に被災地の小児医療の確保のため、支援物資を持ち石巻へ向かいましたが市立病院と夜間診療所の被災により石巻赤十字病院は昼夜数倍の受診者に困窮していました。行政や医師会にも認識のズレや混乱があり医療は破綻していました。このような中で宮城先生はご自身が被災していながら地域の要としてイニシアチブをとり現在も鋭意活躍中です。志田先生は3階建クリニックの2階まで津波が襲い、その中で患者さんを守り数日後ご自身は最後にヘリで救助されたと聞きました。その後も避難所で生活しながらもっと手の届かない辺境地域へ夜遅くまで医療支援を続けています。震災3週間後の日曜にやっと気仙沼を訪れる事が出来ましたが、支援に忙しくお会いする事は出来ませんでした。志田整形外科へも冠水の為たどり着けませんでした。状況が以下にありました(http://www.youtube.com/watch?v=8Q49ORu86qU)。早くも先生はクリニック復興の一歩を踏み出したと聞いています。嬉しい限りです。がんばれー!!
 支援には仙台医師会のユニフォームを着用しました。色々な場面で医師である証明に役に立ちましたし周りの理解も得られ易く感じました。また治安は悪く単独行動はしない様に注意しました。被災者からはストレスのあまり悪意に満ちた言動を受ける事も多く、支援物資のトラックが半ば略奪行為を受けた話や金銭要求をされる事があったと聞きました。現在DMAT、JMAT、支援チームが活躍した後、東北は元の医療過疎状態に戻りつつあります。住民、行政は平常時の何倍もの各種支援を経験し、医療は誰かが無償で提供してくれた状態から現実に戻らなくてはなりません。大きな避難所はとても厚く支援が行き届き、ボランティアの演奏会や屋台が慰問しています(写真3)、手の届かない地域ではさらに苦しみが続きます。その中で今後の支援の方向性は大事です、東海大学健康科学部もこれからの支援を考えていると聞きます。まだまだ継続性のある心のケアは重要です。医療、看護を目指す者には想いを共有し、被害を体感し、心を感じとれるまたとないこの機会を無駄にしないでいただきたいと切に思います。幸いにも黒い悪夢はクリニックから3キロ手前で止まりました。しかし悲しい気持ちは日本全体を包み込んでしまいました。小児科医である私は被害を受けたこどもたちが見せる屈託のない笑顔がこの悲しい気持ちを振り払ってくれる力となると確信し、今日もこどもと絆を深め診療にあたっています。


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石巻への医療援助派遣に参加して
今岡医院副院長 今岡 千栄美(3期生)

 3月11日の報に接して、自分にも何かできないかと思わない人はいなかったでしょう。私もそうでした。特に東北で生まれ育ち、父も青森の出身です。しかし、具体的なこととなると、はたと困惑してしまいました。やはり医師としての貢献が一番と考えましたが、現地に向かうとなると・・・。半ば諦めかけていたところ、同窓会理事会で10期の本多ゆみえ先生から東海大医療支援チームに参加のお誘い、一も二もなくお返事しました。家族へは事後承諾でした。  4月14日早朝、大学ピロティには、本多先生、24期循環器内科の藤林大輔先生、薬剤師の方、事務の方、看護士さん2名が集まっていらっしゃいました。  本多先生以外は初対面の方々でしたが、ここに集う想いは同じ。溶け込めないはずはありませんでした。
 東北自動車道は何事もなく通過、しかし、仙台インターチェンジを降り、市街地に入ると、光景は一変しました。倒壊家屋、映画のセットのような車両の残骸、陸に打ち上げられた船舶、テレビの切り取られた映像とは違い、色が、そこに淀む空気や匂いがすべてぶつかってくる衝撃に声をなくしました。空だけがただただ広く、黙々と作業に没頭する自衛隊の方々の姿だけがリアルでした。
 午後2時、拠点となる石巻日赤病院に到着しました。医療の現場に入って、漸く我に返ったという体たらく。すでに全国から医療チームが集まっていました。病院という所は、概ね静かで、疾病と向き合っている現場だけが慌しいものですが、ここは全ての人や機器がダイナミックに動き続けていました。それでいて統率が取れ、ざっとチェックしたところ、急遽必要と思われる物品もほぼ揃えられていました。
 道路状況や危険地域など、私たちでは思いつけもしないチェックを一緒に行った自衛隊の方にプロフェッショナルを感じつつ、分担して避難所に出発しました。被災から約1ヵ月半が過ぎた頃でしたので、外科的な処置が必要な方は予想外に少なく、私が診た患者さんのほとんどは、急性期から慢性期の疾患に移行した方々です。血圧や感染症に加え、入浴ができないために悪化したアトピー性皮膚炎、自由に身体が動かせないことによる痛痒などが多く、一刻も早い対応の必要性を痛感しました。次第に「被災者を診る」という目の精度が上がっていったように思います。独特な症状への理解が深まったのです。それはみんな同じようで、連帯感とともに、チームの力も増していきました。3日目には金渕会長が応援に駆けつけてくださいました。これは正直、有難かったです。
 活動中、同窓会総会でご講演を頂いた宮城秀晃先生ともご一緒させていただきました。先生のクリニックは津波の被害を受けていました。しかし、翌日には医療活動を始められていたそうです。肉体的な疲労に加え、ご心労も相当なものだったはずです。それでも疲れた顔など微塵も見せず、動き回る姿は、医師としての初心を改めて教えられた思いでした。
 石巻から女川へ、牡鹿半島、市街地から遠ざかると、瓦礫も何も手付かずの状態。電気もつかず、インフラの整備でさえ、いったいどれだけの時間がかかるだろうという思いが、ずっしりとのしかかります。みんなも暗い顔で窓外を注視しています。しかし、現場に到着すると、笑顔のお出迎え。辛いだろうに、苦しいだろうに、疲れるだろうに、患者さんもそうでない方々も、どうしてあんなに明るくしていられるのかと思うだけで胸が詰まります。元気を入れてもらうというあの実感は、もう味わえないことかもしれません。
 4日目、次のチームの到着を待って、引継ぎを行い、帰路につきました。みんながみんなやり残したことがたくさんあるといった表情。引継ぎが終わると、思わず、深々と頭を垂れていました。疲れたとか、後ろ髪を引かれるとかいうことではなく、ただ感謝の気持ちが一杯でした。自分が東北で生まれ育ったというような理由付けはもはや必要ありませんでした。故郷だということから、ある種の義務感が最初はあったようにも思います。でも、そんな小さな思いとは全く異なる経験でした。国が違っても人種が違っても「がんばってほしい」というだけしか言えません。早く元通りの生活が取り戻せますように、もうこんなことは起こりませんようにと願うだけです。まだまだ力及ばずです。でも、まだできることがあります。それを考えてやり続けたいと思います。


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石巻ボランティア支援と4期生メーリングリストの有用性
星医会副会長 谷亀 光則(4期生)

 東日本大震災において、被害に遭われました皆様に心よりお見舞い申し上げます。また、犠牲になられた方々ならびにご遺族の皆様には、深くお悔やみ申し上げます。
 2011年3月11日午後2時46分、未曾有の大地震が東北地方太平洋沖で発生した。そして海辺の街を大津波が襲い、街並みだけでなく多くの命を奪っていった。さらに福島第一原子力発電所まで被災し、周辺住民は遠方への避難を余儀なくされている。まだ震災は現在進行形である。
 沈着冷静な判断力を武器としてきた私(笑)であるが、このときばかりは何とかして現地へ行きたいという気持ちばかりが募ってきた。東海大学医療技術短期大学卒業の菅原由美さんが代表を務める全国訪問ボランティアナースの会キャンナス(http://www.nurse.gr.jp/)が被災地支援に積極的に取り組んでいることを知り、被災地支援ボランティアの一員となったわけである。4月8日(金)22時に藤沢を出発し10日(日)夜に藤沢着の行程であり、勤務には影響がない。当初は気仙沼に行く予定であったが、状況が変わり石巻となった。避難所の一つである石巻市立湊中学校に9日(土)朝に到着した。宮城先生に連絡すると、すぐに湊中学校へ来ていただいた。久しぶりの再会がこのような状況になるとは思いもよらなかったが元気そうな姿を見て安心した。
 湊中学校は石巻市の海沿いに立地しており、津波の被害の大きな地域である。地盤沈下の影響で満潮時には冠水する箇所もあり、ドブの臭いが充満する劣悪な環境である。停電、断水はもちろんであるが、下水機能も失われていた。このような場所が避難所なのである。何をか言わんやである。
                   詳しくはWEBで → http://kame2.com/ishinomaki.htm


ところでメーリングリストの話である。同期の原唯純先生が2009年12月に急逝した際、同期生への緊急連絡が儘ならないことを感じた。そこで2010年1月18日に星医会4期生メーリングリストを自主的に開設し、現在の登録は約60人であり、一日平均1-2通のトラフィックとなっている。今回も、宮城先生から連絡のあった支援物資を一つの箱に入れて宅配便で送るいわゆる「東海大セット」の要請があったときもメーリングリストのおかげで即時に多くの4期生に連絡することが可能であった。またメーリングリスト開設以来、同期会が三回も開催された。 管理者としては開設時には多少忙しかったが今は落ち着いており全く煩わしくない。それよりも同期生とのメールのやりとりが楽しいのである。メーリングリスト登録希望者は谷亀(kame@kame2.com)までメールを送ってほしい。
 現在、メーリングリストは4期生と九州地区で行われていると聞いている。他の期生や各支部・ブロックなどでもメーリングリストの開設を期待したい。


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東日本大震災に対する東海大学として医療援助派遣について
救命救急医学 本多 ゆみえ(10期生)

 はじめに、東日本大震災で被災された方々におかれては心よりお見舞い申し上げます。この会報が星医会の皆様の手元に届くころには震災から半年が過ぎたころかと思います。さらに被災地の日常生活が便利になってきていることを大いに期待しながら災害救援報告を書かせていただきます。
 東海大学は文部科学省からの要請で、石巻赤十字病院に医師2名、看護師2名、薬剤師1名、事務職1名の1隊6名を3泊4日の交替制で3月27日から5月2日まで計12隊派遣しました。当初は災害救助を専門とするDMATのメンバーを中心に人員を選考しましたが、その後は避難所にいる方々の健康管理が主な活動になったため、内科医と救急医との編成となりました。石巻赤十字病院内にある災害対策本部では3月20日に石巻圏合同医療チームを立ち上げ、多方面(医師会、東北大医療チーム、東北大との取り決めで派遣された大学医療チーム、県同士の取り決めで派遣された病院医療チーム、日赤救護班、精神科医師団等)から派遣された医療チームとの合同医療を行っていました。我々もその一員として医療支援を行いました。
 第1隊から第4隊までは蛇田地区(海岸から5km程度、陸側の地区)を中心に1日に3、4ヵ所の避難所の診療と、石巻日赤での準夜勤の外来の支援を行いました。蛇田地区は津波の直接の被害は無かったのですが、川を遡ってきた津波により急激に川の水位が上がり街全体が1m程度の浸水にあいました。3日間程水が引かず、またライフラインも不能となり大変御苦労されたと地元開業医4期生宮城医師からうかがいました。蛇田地区の3ヵ所の避難所は各100人程度の被災者が生活しており、東海大は2ヵ所の避難所で午前中に診療を行い、午後は他の少人数の避難所の往診に当たりました。上気道炎と胃腸炎の症例が多数を占めました。
 その後、蛇田地区はライフラインも復旧し被災者も徐々に自宅に戻り、一部の開業医が診療を再開したため大規模な医療支援は撤収しました。このため第5隊から終了までは牡鹿半島(太平洋に突出した半島)に派遣され東海大が牡鹿半島地区のリーダーを行いました。半島の南側で道路の復旧が進んでいない地域は自衛隊が担当し、北側で一般車両が運転可能の地域を日赤救護班と東海大で回診しました。この地域のライフラインは復旧しておらず、回診した当日に避難所の前の電柱を設置している状態であり復旧作業は現在進行形でした。また、上下水道は無く、固定電話は不可能ですが携帯電話は臨時移動基地が配備され通信可能となりました。さらに半島の南側は被害が膨大過ぎて手付かずに近い状態であり、道路が流された地域の復旧工事を自衛隊が行っていました。牡鹿半島は本拠地の石巻赤十字病院からは石巻湾に架かる万石橋を利用しなければならず、万石橋周辺は震災で地盤沈下が約1m生じ満潮時は橋周辺が完全に冠水し1時間前後は通行止めです。このため診療時間は行き帰りの満潮時間(これは毎日少しずつずれる)を考慮し決定したため回診予定の避難所に前日に回診予定時間を電話連絡しました。日々の業務は10ヵ所の50人から100人規模の避難所と数ヵ所の個人避難所を1日3、4ヵ所ずつ回診しました。この時点では慢性疾患の定時処方が必要な症例や花粉症の症例が多くを占めました。
 通常の診療以外に避難所への道路状況や避難所の環境についての評価がありました。牡鹿半島のある避難所で活動中に地鳴りが数回発生しました。地鳴りだけで終了する場合と地鳴りから周囲の壁や窓等に振動が伝わり地震に発展する場合とがあり、1日に体感地震だけでも十数回発生しました。我々が診療していた約2時間で3・4回地鳴りと地震を繰り返しました。このため、この避難所の方は不眠の訴えが多かったです。地鳴りについては本部に報告をした上でこの避難所の安全性の評価を検討しました。
 牡鹿半島は民家や学校は海に面した低い土地に密集しており山間部には殆どありません。このため津波により半数以上の建物が破壊されて大量の瓦礫が存在した一方、少し車で進むと瓦礫もその他のものも何もかも無くなってしまっている地域が広がり、そこに自衛隊が土を固めて作った道路だけが真ん中を貫いていたのを見て津波の破壊力を目の当たりにしました。


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2011年度星医会総会における講演会より

東日本大震災と津波災害地で奮闘する卒業生の姿
東海大学名誉教授 松崎 松平

 2011年3月11日午後2時46分に、東日本巨大震災とそれに伴う巨大津波による大災害が発生しました。加えて原子力発電所の破壊による放射能漏出汚染事故まで発生しました。重大な災害は、自然災害と対応を怠ってきた人間に責任のある人災として、日本だけでなく全世界において歴史的大問題として、永久に語り継がれることでしょう。
 その破壊エネルギーの凄まじさと人間が被った悲惨さが、現代の映像メディア技術進歩により、当にリアルタイムに世界中にも報道されました。そのビジュアル報道は、被災者への大きな同情と同時に、他人ごとでない現実感を呼び起こし、世界的な大反響が起きています。この日本の巨大な被害状況は、政治や経済、文化などあらゆる面で、国内のみならず国際的にも、甚大なマイナス作用を生み出していることは、広く論じられている通りです。この被災と被害に対し、自然の摂理や無常という観念的表現も聞かれます。身も心も引き裂かれるような悲惨な悲しみと生きる苦しみの現場にいないことから、持論や論評はもとより、心情的な同情の言葉を言うことさえ憚られるように思うのは、多くの人の気持ちのようです。何とか支援したいという気持ちも、義捐金を送ることくらいでしか実行できていないことに、モラトリアム行為に過ぎないのではないかと、私自身も自省の念に駆られています。
 そのような中、去る6月12日に、医学部同窓生会である星医会が新宿京王プラザホテルで開催されました。従来、毎年3月に開催されてきましたが、災害によりこの日に延期されたものでした。私は元教職員として招待を受け出席させて頂きました。今回の開催目的は、東北地区にいる星医会会員医師を励まし援助するためのものでした。石巻市で大きな規模で精神科・内科クリニックを開設している宮城秀晃君(4期生)と、気仙沼市でお父上の病院を継承し整形外科を開設している志田 章君(8期生)の二人による、被災状況と現在の診療状況の報告講演が行われました。在学中には医師国家試験合格を目指した指導や激励もしてきたこともあり、今でも「君呼び」する方が自然で親しさも感じます。しかし二人とも今では20年以上の臨床経験を有し、地域医療の中心的役割を担って活躍していることが、今回のような苦しみの中での講演からは、より明確に伝わってきました。それぞれの被災状況は凄まじいものであり、また働く家族や知人を亡くしている人もいる従業員と共に、あるべき医療の理念を守り、苦境に耐え本当に頑張っている様子を聞いて、心が苦しくなりました。
 彼らに対して深い尊敬の気持を感じると共に、このような医師が育ち立派に活躍していることを、東海大学関係者の皆様にも広く知っていただき、誇りにして頂きたいと思います。

 その概略を以下にご報告しておきます。
 志田君(医8期生)の講演では、街が全て津波にさらわれた中で、彼の病院だけが唯一ぽつんと残ったようすが、スライド写真で示されました。孤島の様なその病院で、自らも恐怖心に駆られながらも数十人の人達を見守り助けた様子を、時にこみ上げる思いから声も詰まらせながら話してくれました。その中に「地震発生時に、自分は幾つもの判断ミスをしました。そのお蔭で今こうして生きています」という忘れられない言葉がありました。その意味は、「診療中で病院には診察やリハビリのための老人も来院していた。街の人達は津波警報により緊急非難を始めたが、自分も職員も患者さん達をおいては逃げられなかった。こんな大津波なんて知らなかったから、大丈夫だろうとも思った。しかし病院は津波にのまれ、水が3階まで押し寄せてきたので、皆一緒に4階に逃げた。窓から外を見たら、周りの建物がみんな流されていた。急いで避難した人達は車が渋滞で走れず、波に飲まれてしまった。病院は父上が造ったので古くなっていたが、新築費用もなかったので内部を改装して使っていた。最近に建てられた新しい建築物は、皆消えてしまったけれど、病院だけが残った。鉄の支柱が地下まで数十メートル打ち込まれていたお蔭だが、自分はそんなことは知らなかった。他にもいろいろな判断の遅れやミスもあったが、結果的にはそれで助かった。このような未曽有の大災害では、何が正しいのか皆が判らないということが分かった」。九死に一生のような経験と現在も苦しい現実の訥々とした話しが、聴く人により強く感銘を与えていました。

 石巻の宮城君(医4期生)の専門は、小児精神医学です。津波の直撃はなかったそうですが、2階まで大きな波の浸水を受けていました。やはり周りから逃げてきた人達を大勢クリニックに受け入れ、水や食べ物も分け合いながら、心のケアーもして、4日くらい救出を待ったそうです。彼は行政や精神医療の学会とも連絡をとり、大きな構想で周辺地域被災者の精神的ケアー、子供の心のケアーの医療と社会支援システムを作り、マスコミにも報道されていたそうです。心がないとなかなか出来ることではありません。さらにガンバを知る立場から、被災者が直ぐに使用可能な緊急支援セットを考えました。2−3日分のレトルト食品、衣料、ブルーシート等を組み合わせたものですが、「東海大学セット」と名付けられています。被災後の早い時期に星医会(医・同窓会)より支援送付を受け、既に百数十セットを配布したそうです。彼の誠実で優しい人柄ならではのことと感じました。当日、私が作った「子供の気持を思う詩」を渡したところ、現場の感情を良く表現していると喜んでくれました。「わたしはがんばっています。だから頑張れってあまり言わないで下さい」という詩です。私達は応援する気持から言ってしまうことが多い、便利な言葉だと思います。しかし頑張るのは本人であって、強いるような言い方は厳に慎むべきと思います。病院でも、患者さんや家族に対して、職員や見舞い客が使いがちな言葉です。このような時に、テレビなどでまだ何も理解できていない幼い子供に、「がんばれ、日本」などと実のないことを言わせているのは、日本だけの現象ではないでしょうか。ついでに言えば、「今買えば税金がお得です」などと子供に言わせているコマーシャルも、スポンサーやコピーライター、TV局のセンスを疑わせます。無批判な視聴者も含め、幼児化した思考停止型日本の社会の一面のようにも思えます。

 横道にそれましたが、卒業生にこのような人達がいること、そしてそれを支援する星医会がありその同窓という精神が、厳しい状況の中で縦に横に繋がり力を発揮しています。
このような事実を、彼らの学生時代に教育に携わった名誉教授会の先生方には、ぜひ知って頂きたいと思いご報告した次第です。

「東海大学名誉教授会会誌より転載」 





東北地方勤務の会員の被災状況報告
宮城県
無量井泰(1):無量井内科クリニック(塩釜市), 医院診療再開, 医院・自宅一部損壊
岡山昭彦(3):南郷病院(南郷町)
只木行啓(4):みなみ仙台皮膚科クリニック(仙台市), 医院診療再開, 医院・自宅OK
宮城秀晃(4):宮城クリニック(石巻市), 医院診療再開(最近), 医院・自宅床下浸水被害
萱場 潤(6):かやば小児科(仙台市), 医院診療再開, 医院OK・自宅全壊
志田 章(8):志田整形外科医院(気仙沼市), 医院・自宅全壊, 場所を変更して再開準備中
伊東邦久(9):伊東クリニック(仙台市), 医院診療再開, 医院・自宅OK
菊地 匡(9):菊地内科医院(亘理郡山元町), 医院OK・自宅一部損壊, 津波数m近くまで押し寄せる
遠藤昭彦(11):遠藤クリニック(仙台市), 医院診療再開, 医院・自宅OK
石垣五月(12):仙塩総合病院(多賀城市), 勤務先浸水、病院再開途上にあり, 自宅OK
熊坂祝久(12):熊坂医院(栗原市), 医院診療再開, 医院・自宅OK
松尾兼幸(13):松尾けんこうクリニック(仙台市), 医院診療再開, 医院・自宅OK
大江桂成(14):わくや整形外科クリニック(涌谷町), 医院診療再開, 医院・自宅一部損壊
李 利亜(14):無事
三条雅敏(19):仙台市立病院, 勤務先・自宅OK, 実家気仙沼床下浸水, 診療再開
佐藤幸一郎(19):佐幸医院(登米市), 医院診療再開, 医院・自宅OK
*連絡先不明:吉田龍一(9)・丸茂理絵(13)・李 利文(15)・金澤憲治(26)・山尾陽子(26)
岩手県:釜石市以外の会員については, 人的被害, 建造物の大きな被害はありませんでした
田島厚子(2):ル・コンセール田島内科(一関市)   ・田代 敦(4):岩手医科大学(盛岡市)
森谷耕太郎(5):森谷医院(盛岡市)         ・中島 玲(6):中島医院(北上市)
鹿野亮一郎(6):都南病院(盛岡市)と釜石厚生病院、釜石のぞみ病院(釜石市)
村松 親(8):むらまつクリニック(盛岡市)     ・熊谷和久(11):熊谷内科胃腸科医院(花巻市)
相上和徳(21):釜石厚生病院(釜石市)
福島県
佐々木満(3):4月の余震でサーバーとCTが破損し休業, 原発事故もあり家族とともに大阪に避難勤務
大竹健一(3):クリニックも自宅も無事
水谷郷一(4):原発20km圏内, 伊勢原市内に避難中
川島千鶴子(4):自宅無事, 勤務先半壊6/1よりプレハブにて診療開始。
中野広文(5):病院は一部損壊, 断水が4月2日迄続き透析が出来なかったが今は通常通り, 自宅は無事
添田仁一(5):クリニックは無事, 実家が全壊だが何とか住んでいるとの事。
菅原秀樹(5):クリニックは一部損壊, 自宅は蔵の壁が崩落。
小島原将博(6):クリニックも自宅も一部損壊     ・大川敏昭(6):クリニックも自宅も一部損壊
藤城裕一(7):病院は無事    
芳賀良春(8):病院本館は一部損壊, 透析センターが全壊し4月28日より仮復旧, 自宅と実家が一部損壊
坂本浩保(9):クリニック一部損壊, 自宅は無事   ・鳴瀬 淑(9):病院は一部損壊, 自宅は無事
伊藤知子(10):クリニックも自宅も無事       ・青木京子(10):連絡先不明
津田晃洋(10):病院も自宅も無事          ・山下 拓(11):クリニックは無事, 自宅は一部損壊
石田良子(12):原発20km圏内, 東京都内に避難中   小野木仁(14):クリニックも自宅も無事
福島県立医科大学は問題ないようですが、個別に確認はできません。
太田病院グループ:郡山であり、太田病院は被害は少なかったようです。白河厚生病院の円谷隆先生からも返信ありません。
青森県秋田県山形県:人的被害、建造物の大きな被害はありませんでした。



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