星医会 東海大学医学部同窓会
 
 会報(第45号)
 〜平成23年9月1日発行〜


新任教授紹介

外科学系整形外科学教授に就任して
外科学系整形外科学 教授 渡辺 雅彦

 星医会の先生方には常日頃大変お世話になりありがとうございます。
 2011年4月1日付けで外科学系整形外科学教授を拝命いたしました渡辺雅彦です。私は1987年に慶應義塾大学医学部を卒業し、同年整形学教室に入局いたしました。その後、大学病院と関連病院で整形外科を修、特に脊椎・脊髄病に興味をもち、subspecialityとして脊椎・脊髄グループに所属し勉強してきました。また、同時に基礎研究では脊髄損傷の病態・再生の研究を行って参りました。脊髄損傷の患者さんは若くて活動性が高い方が多く、その麻痺によるご本人とご家族の苦しみは筆舌できません。少しでもその麻痺を軽減するには索路機能を再生することが重要と考え、オリゴデンドロサイト前駆細胞に着目し米国コネチカット州立大学(この細胞を専門に研究しているラボがあります)に留学しました。この留学中に持田讓治教授からお話を頂き、留学後の2002年より東海大学でお世話になり今日に至ります。整形外科では、伊勢原本院に持田讓治教授、大磯病院に岡義範教授がおられ、私は三人目の教授となります。
 初代今井 望教授、二代福田宏明教授、三代持田讓治教授が築き上げた東海大学整形外科には、約60名の領域員が所属し、医学部付属病院、大磯病院、八王子病院の三つの付属病院と数カ所の基幹病院で臨床・研究に取り組んでいます。私どもの領域の特筆すべき点は、新入領域員の大学院への進学率が非常に高いことです。現在は約10名が大学院生として基礎研究に取り組んでおり、整形外科の中では日本でも有数の業績を輩出しております。一方、患者さん思いの優れた臨床をしているとの自負はありますが、臨床研究の発信にはさらなる伸び代があるのではないかと感じており、これをお手伝いすることが私の仕事と考えています。また、医学教育のあり方についても改善点があるのではないかと思っています。「良医を育てる」が東海大学医学部の目標です。しかしながら、学会発表や論文は業績となり、臨床のスキルは仲間の医師や患者さんから評価されるのに対して、教育が評価されることが少なく、特に臨床系の領域では臨床・研究に比して教育への医師のモチベーションがあがらない現状があります。教育への取り組みをより評価するシステム作り、より多くの医師が医学教育に興味をもてる環境作りを模索していきたいと思います。
 私個人としましては、今後とも一人でも多くの脊椎・脊髄疾患で辛い思いをされている患者さんたちのお手伝いができるように、臨床医として修練を積んでいく所存です。また研究面では、基礎研究では先述の如く脊髄の再生について、臨床研究では上位頚椎損傷や脊髄腫瘍について、これまで興味を持ち取り組んで参りました。引き続き、私なりの切り口で少しでも社会に還元できる仕事を領域の若い仲間とともに進めていきたいと考えています。皆様にはよろしく御指導と御鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。

【略歴】渡辺 雅彦(わたなべ まさひこ)
1981年3月   慶應義塾高等学校 卒業
1987年3月   慶應義塾大学医学部 卒業
1987年4月   慶應義塾大学病院 研修医(整形外科)
1988年7月   伊勢原協同病院 医員
1989年7月   清水市立病院 医員
1991年7月   済生会中央病院 医員
1992年7月   慶應義塾大学医学部整形外科 助手
1993年7月   川崎市立川崎病院 副医長
1997年1月   静岡赤十字病院 副部長
1998年7月   慶應義塾大学医学部整形外科 助手
2000年7月   米国コネチカット州立大学 physiology & Neurobiology postdoctoral research fellow
2002年10月   東海大学医学部機能再建学系(領域 整形外科学)講師
2003年4月   東海大学医学部外科学系(領域 整形外科学)講師
2006年4月   同上 助教授
2007年4月   同上 准教授
2011年4月   同上 教授


▲ページのトップへ




教授に就任するまで
基盤診療学系再生医療学 教授 川口 章

今までの遍歴をまとめて風変わりな御挨拶の代わりとしたいと思います。

阪大第一外科(1977) 「内科的なことを知った上で外科的に治療する」という外科の優位性を信じて研修。術後の管理に明け暮れ、2週間連続の泊り込みもした。ヒルシュスプルング病の赤ん坊、神経芽腫の男児、複雑心奇形に右心バイパス術など多彩な症例を受け持った。箱型ブルーバードに一切合切を積み込んで大阪港から夜間フェリーで単身松山へ向かった夜の高揚感は忘れられない。

国療愛媛病院(1979) くじで残った研修先だったが、「問題は研修先ではなく研修態度こそが大事だ」と慰められた。先輩に囲まれ、田舎の自然に恵まれ、結婚も出来た幸せな3年間だったが、報告、連絡、相談の出来ない危険な研修医でもあった。少ない手術で思うように経験が積めなかった反面、英語の勉強をしてVQEに合格、長男誕生とともに米国へ留学。

セントビンセント病院(1981) CABGの毎日。止血がとっても簡単、心臓外科が立派なビジネスであることにびっくり。日本人ペアに小児循環器のリンデ教授が先天性心疾患を回してくれた。毎日青空、自由で豊かな生活、空気の匂いまで違うカリフォルニアは正にカルチャーショック。昼過ぎまでに2例手術を済ませて帰宅し、夕方から家族3人でディズニーランドにでかけていた。

バッファロー小児病院(1982)へ移動する途中で長男が骨折、そのまま入院、家内が付き添い、僕は泊まり込み。家族全員の病院生活が始まった。ボスはインド人。ノルウェー人のレジデントと2人で手術以外の全てをこなした。レジデントとしてまともに扱われ、英語も上達したが、寒く忙しくて辛かった。次は何か新しいことをしたいとバージニアへ。

バージニア医科大学(1983)ではラウワー教授が心移植をしていた。普段は研究をし、ドナーがあるとジェット機で心摘出にでかけた。当時の興味は心肺移植。心肺の除神経は霊長類しか生存しないので、犬で心臓一側肺移植のモデルを開発した。日本でも心移植をやるというので、バッファローからのオファー、ラウワー教授の引止め、ツーソンに未練を残しつつ3年半ぶりに帰国。

阪大第一外科(1985)では心移植どころか、仕事なし、収入なし、席もなしの3Sにあきれる。長女(2人目)誕生。研究費もなく自費で休日にラットを購入していた。非常勤や助手で着実にやっている同僚を横目に、生活苦からの逃避を考えるも、再脱出を夢みたツーソンには同僚が選ばれた。家族4人になって、満足に暮らすことも、仕事上の満足感もない、慢性的な抑鬱状態にあった。

ピティエ病院(1987)心臓一側肺移植をしたいというキャブロール教授を頼って渡仏。移植・人工心臓など何でもありの環境で、心臓一側肺移植の長期生存例をえた。2男(3人目)誕生後に家族が合流、パリ生活、ワイン、ドライブなど個人生活も充実していた。

阪大第一外科助手(1989)帰国してすぐ3男誕生(4人目)。肺高血圧の実験的治療法としてラット肺移植で博士号取得。胸部外科学会で国際アンケートを行い、日本の心臓外科医の大過剰が明らかに。兼ねてからの印象が証明されたが、さて自分はどうする?と考え、

国立循環器病センター(1990)に移る川島教授についてゆく。心臓外科と実験治療開発部の兼任で専ら肺移植や循環停止の実験をする。心臓外科ではメイズ手術を実用的に改変し、「国循式メイズ」を開発。これを米国に広めるといって再びツーソンへの脱出を試みるも直前で失速。

UCSD(1993)肺高血圧治療の研修のため公務出張。肺移植、ASD作成、NO吸入などを臨床例で行っていた。サンディエゴへ家族全員で移動、現地校へ(上3人)入学し、海岸沿のリゾート生活を楽しむ。帰国してメイズ手術の成否は左房径に依存すると発表(パリ)すると、左室機能も内径に依存するというバティスタと出会った。逆に左室径を縮小すると心機能が改善するという。

Caron病院(1996) ブラジルまで見学にゆきバティスタ手術のダイナミズムに仰天。血行動態の解析が必須と考え圧容積解析装置をもって再訪問。奇想天外な3ヶ月に数十例の解析で理論的裏付けができた。世界中で手術が行われるも、症例選択が難しく失敗例が続出。

東海大(1997〜)当時一番若い助教授として単身赴任。国立センターと私立大との違いに面食らう。手術は血管ばかりで心臓がない。話が違うと詰め寄ったら「何をしてもよい」といわれCardiac Volume Reduction 研究会を立ち上げ、国際シンポジウムを2年毎に開いて、Yacoub教授に討論を振ったりした。欧米ではバティスタ手術は中止され、国内でも下火に。この頃、人工酸素運搬体の研究を始める。

バッファロー総合病院(2000)バッファロー時代の同僚がいた病院では、オフポンプ手術が全盛で、手術ロボットも導入していた。大統領選の票読みを繰り返すニュースを独り聞いていたが、これがブッシュ大統領だった。東海大に復帰して暫くして9.11が起こった。大阪の家族が合流し5年間の単身赴任が終わるも、両親が2週間のうちに相次いで倒れ、自分で父を看取る。「次は自分だ」という思いが沸いて来た。再生医療科学(2004)へ移り、研究費を獲得するも、出版が遅れ気味。後進育成に励むという同級生の言葉を聞くにつけ生涯現役で研究を続ける覚悟を固める。赴任して14年、一番年長の准教授として何年か長寿番付の筆頭を張ったのち昇任させてもらった。卒後研修のあと四国から大阪を眺め、外国から日本をみて、今は東海大から外を見ている。本学の学生が羨ましいのは自由気ままなことである。自分のころは束縛されて不自由で不満なことが多過ぎた。今になってようやく自由に動けるようになったのは、「大きな」と思っていた(実はそうではなかった)何かを捨て、社会的に「重要」と信じていた(実はそうではなかった)コースから飛び出したからだと思う。3ヶ月以上いた施設だけでも11を数える「青い鳥症候群」の典型である。そういう人間にとって東海大は私学の自由さを感じさせて好ましい。更に伸ばしてゆくべきであるが、最近は逆の事象が気になる。どこにいても循環の研究を中心に共同研究者と研究費と意欲だけが頼りという厳しい状況に変りはないが、今は自分のキャリア中で一番大きなテーマを興味をもって追っかけている。このまま集中して研究を続けることができればよし、それから先はどうするか、今までどおり走りながら考えることとする。よろしくお願い申し上げます。



▲ページのトップへ
←目次へ戻る
←会報のページへ戻る