星医会 東海大学医学部同窓会
 
 会報(第45号)
 〜平成23年9月1日発行〜


卒業生の学内教授誕生

外科学から学び、伝えるべきこと
外科学系消化器外科学教授           
医学部付属大磯病院 外科 島田 英雄(4期生)

 国家試験は何とか勢いで合格。その後、故三富利夫先生が教授をされておられた、第2外科に入局を決めました。当時は、まだ外科系に対する3Kなる言葉も存在しません。大変であればこそ魅力があり、達成感も得られると考えておりました。今日、外科医として働けるのも、外科学の基本を第2外科の諸先輩方よりご指導いただけた賜と感謝しております。町立浜岡病院、平塚市民病院、森の里病院での勤務後、1994年からは、伊勢原で三富先生また幕内先生から直々に、食道疾患を中心に診療、教育、研究についての指導を受けることができました。
 食道疾患と言えば、先ず食道癌があげられます。手術範囲が胸部、腹部、頚部の3領域に及ぶため手術侵襲も大きく、リンパ節郭清に関する手術精度に加え、術後管理も極めて重要となります。医師、看護師、コメディカルが一致団結しなくては満足のいく治療成績を得ることはできません。また手術適応に関しても極めて慎重でなければなりません。そのため、術前診断は極めて重要です。術前の内視鏡での深達度診断や早期診断の技術については、幕内先生から長年に渡り、厳しく指導をいただきました。現在も、特にこだわりを持ち、日々、継続して勉強し指導にあたっている領域です。
 また、手術より難しいのは、一番適した治療法について、症例によるバランスを十分に考慮し提供する事と教えられて来ました。
 昨今、癌治療の個別化なる言葉が頻用され、また治療指針として、ガイドラインなるものが公開されています。ガイドラインは、進行病期からみた指針であり、個々の合併疾患の有無、家族構成、人生観などについては考慮されたものではありません。実臨床において、自分の親、兄弟、家族に受けさせたい治療こそが、提供すべき治療と考えております。
 私が、学問のみならず、多面にわたり教育、指導をうけてきたことを、如何に後輩に伝えるべきでしょうか。私はここ10年以上、空手道部の顧問をしております。部活動では、先輩から指導を受け個人の技術を磨き、その先輩なる部員もさらに上級の指導者からの指導を受けて技を磨く。さらに上級をめざす段階的な技術向上と協同体制のシステムです。医学教育のみならず医師としてあり方に通ずる道がありそうです。
 昨今、外科系医師の志望者の減少が問題視されています。価値観を何に求めるかは、その時代背景や社会情勢にも大きく影響されているものと思われます。
 自分の得意分野に限定せず、何事にも広い視野から、興味を持つことが重要と考えております。そして、極めるべきことには、最大限の努力とこだわりを持ち続け、後輩に伝承したいと思っております。
 われわれの仕事は先輩、同僚また後輩の信頼なくしては何事も出来ません。皆様のご支援のもと、東海大学医学部また付属病院の発展に価値観を見出せるよう努力する所存でおります。

【略歴】島田 英雄(しまだ ひでお)
1983年 東海大学医学部 卒業
1988年 東海大学医学部 外科学2 助手
1998年 東海大学医学部 外科学系消化器外科学 講師
2004年 東海大学医学部 外科学系消化器外科学 助教授(准教授)
2011年 東海大学医学部 外科学系消化器外科学 教授


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未来へのパス
外科学系脳神経外科学教授 下田 雅美(3期生)

 藤沢周平のエッセイの一つに印象的な一節がある。それは「故郷では私はふだんより心が傷みやすくなっている。人にやさしくし、喜びを与えた記憶はなく、若さにまかせて、人を傷つけた記憶が、身をよじるような悔恨をともなって甦る」というものだ。誰もが思慮が足りなかった過去の自分を思い出し、たとえ、それが些細なことであったとしても、悔やむ時があるだろう。勿論、私も同様であり、その記憶は、これまでの医師としての道程にも及ぶ。「こだわりすぎた術式が招いた苦い思い」、「根気なく僅かな、ひと手間を省いたための痛い経験」などきりがなく、柄にもなく寝つけない夜もある。こんな自分を責め、後ろ向きになりかけた時は、この言葉を思い出すことにしている。
「常に長所だけを生かす指導法」で有名な、現アーセナル監督のベンゲルが、名古屋グランパスの監督時代にチーム成績が低迷している選手たちに送った言葉である。
「Pass should be future, not past, not present」
「パスは未来に出すもので、決して現在でも過去でもない」
つまり、未来は縦パス、過去がバックパス、そして現在が横パスと表現した、このフレーズには不思議な説得力がある。
サッカーでいうパス(pass)とは、ボールを味方の選手に渡すことであるが、我々、医療に従事するものにとっては何にたとえたら良いのだろう。すぐに、連想するのはクリニカルパスだが、残念ながら、こちらのパスは同じパスでも工程表を示すpathである。しかし、全く異なる両者に思いがけない接点がある。そもそもクリニカルパスは、「科学的な根拠に基づいて標準化された医療の工程表」であり、包括支払制度時代の医療経営に必須のツールとされている。このパスは、医学知識や診療経験に乏しい医師でも、標準的な医療を効率的に実施できる優れた管理手法である。しかし、症例が標準的な経過を辿る限りは、「パス通りでよろしく」の一言で、全職種のスタッフが工程表に従って動くわけで、医師の指示待ちや長い申し送りがない反面、考えない、伝えない医療現場を生む危惧がある。それゆえ、このpathに否定的な意見も多い。その一方、passは副詞をつけ「pass on」とすると、「伝える、継承する」の意味がある。そう、我々にとってのpassは「耳学問による医学知識と技術の継承」ではないだろうか。そして、path管理を行う場合は、可能な限りpassでpathの根拠となった背景、エビデンスを教え合うべきだろう。
 想い起せば、私が医師として成長する過程で、私の医学知識や技術の根源となったのは、医療知識豊富な先輩医師やナース、そして、あらゆる職種の皆さんの助言や指導だった。私は、この多くの皆さんが与えてくれた「良質な耳学問」を頼りに診療を行っていたといっても過言ではないだろう。時に「質問するだけではなく、たまには自分で調べろ」とも叱られたこともあるが、お構いなしだった。未熟な医師として第一歩を踏み出した頃は、当直、処置、雑用ばかりで文献など読む気力さえなかったのだ。文献は、頂いた耳学問のネタがウサンくさい時だけに、確認の意味で読んだ程度だった。なんとずうずうしい。あの頃の皆さんには本当に心から感謝している。今度は私の番だ。私は、「エビデンスのある最高レベルの医学知識や手術手技」を「分かりやすく解説した耳学問」として、いつでも即座に、決断力を持って的確に提供しようと思う。若手には、私から絞り出せる限りの耳学問を得てほしい。そして、時に関連した文献を読み、知識を補足し、私を余裕で超えてほしい。
 我々は、耳学問という小さなパスを互いにつなぎ、build upしゴールを目指そう。そして、このパスの積み重ねにより、互いに尊重しあう環境が育ち、高いmotivationと確かな方向性を持った、そして勢いのある医療現場が確立される。さらに、それが若手を大きく飛躍させ、いつか頑強なディフェンスラインをpenetrateし、ゴールを生む決定的なパスへ繋がる。彼らには、あまりオフサイドトラップなど気にせず、どんどん自由にプレイできるスペースに走りこんで欲しい。私はチームリーダーのひとりとして極上の耳学問という未来へのパスを出し続けたい。

【略歴】下田 雅美(しもだ まさみ)
1983年 東海大学医学部医学科卒業
1988年 東海大学医学部医学科脳神経外科助手
1993年 東海大学医学部医学科外科学講師
2001年 東海大学医学部医学科外科学系脳神経外科領域准教授
2011年 東海大学医学部医学科外科学系脳神経外科領域教授


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偶然からはじまった現在
外科学系呼吸器外科学教授 山田 俊介(4期生)

 2011年3月11日の東北地方太平洋沖大地震、福島原子力発電所の損壊により被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。
 本年4月1日付けで東海大学医部外科学系呼吸器外科教授を拝命いたしました。この機会を与えてくれました多くの諸兄、諸先輩の皆さまに感謝いたします。そして星医会の皆様方に一言ご挨拶を述べたいと存じます。私は1983年東海大学医学部卒の四期生です。大学時代は4年生まで空手部に在籍し、多くの諸先輩から指導を受け、同期の仲間や後輩達と夏の合宿など楽しい大学生活を送ったことは今でも鮮明に覚えています。大学卒業後は第一外科教室(故正津晃教授)に入局しました。 研修医時代の私は研究活動に一切興味がなく、早く一人前の外科医になることが目標でした。臨床研修が終了し、1990年から2002年の八王子病院勤務まで大学を離れての勤務でした。当初漫然と外科修行を行っておりましたが、その転機となったのが教室のご配慮で1992年にカナダのトロント総合病院の胸部外科教室に参加できたことです。私は学生時代からアメリカの医療レベルがどの程度のものか一度見てみたいと思っていました。そして当時のトロントの主任教授が偶然にも北米地区の胸腔鏡下手術地域責任者であったことから、多くの胸腔鏡下手術に立ち会い、教育セミナーで北米の胸腔鏡下手術の現状を知ることができました。胸腔鏡手術は実は100年の歴史がありますがまったく普及せず、1990年初頭にビデオシステムを導入することで新しい手術としてリニューアルしました。すでに皆様はご存知と思いますが、胸腔内にビデオカメラを挿入しモニターを見ながら手術を行うので、従来とは比較にならない小さい創部での手術が可能になりました。大きな開胸創で、外科医がやりよい環境で手術は行うという従来の固定観念を完全に覆すものです。私は胸腔鏡下手術に興味を抱きました。当然新しい手術ですから教科書もなく指導医もいない状態で、帰国後は独学でその肺癌手術に取り組みました。日本では肺癌外科治療は従来の手術の延長線上に、より高度な技術を要する気管支形成、血管形成を伴う肺葉切除が注目され、通常の肺葉切除でも難しい胸腔鏡下肺癌手術などだれも見向きもしません。その上なかなか自分のイメージに適う手術に至らず、その方向性に疑問を感じたこともありました。それでも井上教授を中心とする東海大学呼吸器外科教室では岩崎(現呼吸器外科教授)、加賀(現北海道大学腫瘍外科准教授)らが胸腔鏡下肺癌手術開発に積極的で、そのことがはげみになりました。2001年に虎ノ門病院に移り、その分野のパイオニア的外科医河野先生から直接指導を賜る機会を得たことで、2002年(胸腔鏡手術に出会って10年目)に、この手術を自分の中で一つの形として残すことが出来ました。近年では胸腔鏡下肺癌手術が日本の肺癌手術全体の約半数を占めるまでに増加し、基本手術術式の一つとして認知されつつあります。今から考えますと、歴史的な手術変革となった胸腔鏡下手術時代の幕開けが、たまたま自分が外科医としての成長期であり、偶然現場で見聞する機会を得、その後共通の志をもった仲間や指導者に出会えたことで、今の自分があると思います.
 最後に、同窓生とは心強いものです。いつも仲間に囲まれ、また何事も簡単に解決できる大学病院勤務時には分かりにくい事ですが、院外での勤務時代に私は強く感じました。少なくとも、私が出会った同窓生は、先輩、後輩を含めて皆さん自然と親密感を感じ、また相談にも快く応じてくれました。現在八王子病院に勤務しておりますが、皆様と共通の源である東海大学が近未来に向かって一層発展すべく努力する所存です。今後ともご支援、ご指導よろしくお願いいたします。末尾となりましたが、被災地の一刻も早い復興を心よりお祈りいたしております。

【略歴】山田 俊介(やまだ しゅんすけ))
 1983年 東海大学医学部卒業
 1988年 第一外科助手採用
 1990年 佐々木研究所付属杏雲堂病院
 1992年 トロント総合病院胸部外科
 1993年 清水市立病院
 2001年 国家公務員共済組合連合会虎ノ門病院. 呼吸器外科教室講師昇格
 2002年 東海大学医学部付属八王子病院
 2005年 同准教授昇格


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 今年は福田竜基先生(総合内科学:11期生)、内山善康先生(整形外科学:14期生)が准教授に昇格されました。


ススメ!大きくなった柔道少年
外科学系整形外科学准教授内山 善康(14期生)

 私が幼い頃、抱いていた夢は「時計屋さん」でした。機械の奏でる細かい音に、いくつものゼンマイの重なりに心奪われ、ご多分に漏れず家中の時計を分解し、再起不能にさせた時計屋見習いは2011年春 外科学系 整形外科学の准教授を仰せつかりました。実際、あの頃の未来とはかなり違う現実にかなり戸惑っている今日この頃です。
 皆さんは自分の立ち位置というものを正確に把握されていますか?
「学研」の学年別の「科学と学習」や小学館の「小学○年生」のように明確に対象年齢が明記されて購買するならいざ知らず。大人の読み物は20~30代男性対象〜のように緩やかな括りになっていきます。そうなんです。自制が問われ、方向性が問われ、選択力が問われる。何より客観力が問われているのです。これが一見簡単そうで難しいと思いませんか。自分の中では少年ジャンプでも世間ではとっくの昔に中年・老年ジャンプで、変わらないのは記憶だけです。いくら「俺はLEONのチョイ悪オヤジ」だと叫んだ所で「痛い」などと言われ憤慨するはめになるのです。誰もが、いきなり今がある訳ではありません。当然、過去の人生の積み重ねがあって今がある。それゆえ時には足踏みしながら居続けたい時代もあるのです。しかし返す返すも残念。時は無情にも正確に時を刻み続け、世界中平等に公平に万人に時は経ちます。あるとき、ふと振り返ってみると「あらまっ。びっくり」もう夏になっていたり、子供は中学受験だったり、お腹がメタボに出たり、携帯はスマホになっている。そして入局10年が過ぎた頃に人事表をじっくり見ると後輩の方が上の人間より多くなっているわけです。若手などと言われていたのに気がつけば、体力勝負とデジタル化には多少の不利を感じる年頃になっています。自分を正確に見極めるのは非常に難しい。見栄もあれば希望もある。見たくない現実も甘んじて受け入れる度量はありますか?
 今回、このような立場を仰せつかり、さて私はどうなのかと考えてみました。果たして私は准教授と言う立場にふさわしい人間になっているか???
 現在の私の基礎を作ったのは日本の国技である「柔道」です。柔道は「精力善用」「自他共栄」を基本理念として、競技における単なる勝利至上主義ではなく、身体と精神の鍛錬と教育を目的とした素晴らしいスポーツです。小学2年生から始めた柔道は、私の精神、技量、身体を余すことなく構築しました。その中でも桐蔭学園高校柔道部時代の寮生活における経験ほど辛かったことに出会ったことはありません。あれから30年近く経ちますが、今でも思い返すと身震いするほど苦しい経験の日々でした。私にはその経験を乗り越えてきた自負があり、当時のことを思えば大抵の出来事は乗り切れる自信があります。今でもその考えは変わっていません。人間の肉体的・精神的に最も重要な成長期に厳しい世界に置いてくれた両親や指導下さった先生方には感謝するだけです。「可愛い子には旅をさせ」、「鉄は熱いうちに打て」という言葉は間違いなかったと確信しています。自分自身で目標を設定し、到達する為の努力をする。言葉にすればこれだけのことです。しかし結果は様々です。言い訳しても努力したとしても結果が出なければ何にもならない。同じ努力でも結果が出る人もいれば、まったく結果が出ない人もいる。それをむなしいと逃げるか、再度到達しようとするか。
公平であり不公平な世界です。そのような世界で育った精神を持つ私は、少し異色な領域員なのかも知れません。
「柔道」によって作られた心技体があるならば、私は「医道」を正々堂々真っ直ぐに歩きたいと思います。
自分が考える、やるべきことをやり、進むべき道をしっかりと歩む脚力と知力を持った医師として学者として生きたいと願います。さらに医道を通じ、多くの後輩を指導してみたい。思うことあらば声に出し、時には怒り、共に悩み苦しみ、喜び笑い感動する当たり前の姿で進みたいと思います。部様な姿も、強い姿も見て下さい。この道が、たとえ曲がり道であろうとも坂道であろうとも真っ直ぐ、力強く進んでみせましょう。
 しかし、この道を目指していたのかと問われると、正直答えには詰まります。だってあの頃の未来には立ってはいない。でも、これが私の次の未来への決意表明です。


 ススメ! 大きくなった柔道少年。


 ススメ! 時計屋さんになりたかった柔道少年。



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