星医会 東海大学医学部同窓会
 
 会報(第46号)
 〜平成24年3月1日発行〜


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星医会員への提言


初代医学部長 東海大学名誉教授 佐々木 正五

 科学のあり方については、各人はそれぞれ或る方向性を持っている。
然しながら、立ち止まって、それに就いて深く考えることは稀であるが、そんな事が必要であろうか?
必要なのである。なぜならば、科学という物は 絶対的な存在であると同時に、人間と相対的な存在性を持っているからである。例えば 科学と科学技術という二つの用語が同一な意味で用いられている事がある。大学で行われている研究の中で、すぐに実用化出来るものには研究費を出すが、直ぐに使えないものは奨励しない。つまり科学技術は尊重するが科学は相手にしない、という事になる。更にいうならば、医学という学問の中で直ちに医療に役立つものは奨励しようとするが、それが医療行為には役立つが本当に患者の為になるか否かを考えないことはないか?
現在の科学は天然資源を消費する場合が多い。食料にしても、消費が主体であって、例えば石油を作る方向の動きはない。原子力が大きな問題となっているが、この将来像が見えてこない。単純に廃止論を唱える方が抵抗が無く、進歩的に見えるが、それで良いのであろうか?
人類がエピメディウスから貰った“火”も多くの災害を齎らしたが、それを制御する方法を見つけ出し、人々に幸せを与えている。ダイナマイトも当初は多くの悲劇、災害を作ったが、その使い方を熟知するようになって、今日では無視出来ないどころか、欠くことの出来ない存在となっている。原子力についても同じことではないか。
つまり 自然と科学 の共存こそ我々は今一度考え直る時ではないか。

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文明病的社会において思うこと
東海大学名誉教授(元感染症学教授) 小澤 敦

 人間が自然から自立し、自然を支配し、征服するということを善とすることが文明の基本概念ということが出来る(村上陽一郎)。近代科学技術による自然資源の開発が、利潤追求、経済効率至上主義の為に自己目的化し、結果として我々は物質的豊かさを享受してきたが、一方において自然生態系の崩壊がもたらされ人類滅亡への危機感にさらされている。
 私の知人である熱帯森林保護団体代表の南研子氏は、アマゾンの森を守るために命をかけて活動を続けている。地球上の酸素の1/3を供給しているアマゾンの森で過去数年間に東京都の約12倍の面積を持つ熱帯林が消滅した。その跡地は、牧場や大豆畑に変わり牛肉や豆腐、納豆になって日本や先進国に暮らす人達の胃袋を満たしている。地球の肺であるアマゾンのジャングルが消えれば、福島原発事故による放射能汚染と同じで、いずれ人類の滅亡に繋がるものである。経済優先の論理は人類の幸せを追求する道具だったはずだが、この論理が地球上の全生物の命取りになりつつあると彼女は言う。
 我々は物質と技術によって生まれた文明の終焉を感知し、自然の操縦者から自然の一員に変わり、自然との共生への道を模索すべき時が到来していることを知るべきである。
 私は曽てケニアにおける感染症対策プロジェクト(JICA、現国際協力機構)に10年間に亘って国内委員、また国内委員長として参加した。ケニアのモンバサ近くの小学生の多くがビルハルツ住血吸虫に感染し、血尿を排出しているが、彼らは至って明るく健康感に溢れていた。金と物が主体となった近代文明を謳歌してきた先進国の人達が失っている多くのもの、即ち人の心、底抜けの明るさ、自然との一体感などをアフリカの子供達は持っている。
 携帯電話やパソコンなど情報社会における利便性は認めるとしても、それらによってもたらされた影の部分、日本人の持っている情念、情感といったものの消失や、平面的、直線的な思考形態への変化などが表面化しているように思えてならない。日本の伝統、文化によって育成された惻隠の情(弱者に対する思いやり)は、我々の誇るべき普遍的価値観である。近代は古きを否定することで始まった時代で、善と悪とを2つに分け、どちらかを否定することから出発した近代的思考には問題点が存在する。よく乳酸菌は善玉菌、大腸菌は悪玉菌であるという言葉が何の躊躇いもなく使われているが、これなどまさに典型的な直線的、単線的思考表現であり、私は全く共感できない。善玉、悪玉の両方に光と影の部分があり、両方に存在意義がある。そして、両者が一体化することにより有機体としての機能が発揮されるのである。悪徳の試練を受けない美徳は空虚であるという言葉がある(John Milton)。
 人間を含む高等生物のゲノムDNAには驚くほどの何の働きもしていないと思われる無駄なDNA領域がある。大腸菌やウィルスにあるゲノムDNAはすべて遺伝情報としての機能を持ち有効に利用されている。近代文明社会において重要な価値観としての効率化という視点から見ると、ゲノムDNAにムダのない細菌やウィルスの方がヒトのゲノムDNAに比べて効率的であると言える。しかしながら、我々人間は、この働きのない無駄と思われるDNA領域を排除しないで、大切に複製して次の世代に受け渡し、それを繰り返すという進化の戦略をとって来たのである。生物進化のメカニズムは、「効率化による勝ち残りではなく、複雑化による負けない生き残りである」との指摘がある(四方哲也)。
 私は以前から生態学(Ecology)に興味を持ち、自然現象を生態学的視点から考察してきた。アリ(蟻)の社会ではよく働くアリが6、普通に働くアリが3、怠け者で働かないアリが1、といった構成の中で生活活動が行われているといわれている。そこで、社会活動の効率を上げるために、怠け者アリを排除すると、残ったよく働くアリと普通に働くアリの構成の中からまた怠け者アリが登場し、その構成比率がまた6:3:1となり、これが繰り返されるという。このことは、1存在する怠け者アリは、アリの社会を維持していくために必要不可欠であることを示すものであろう。このようなアリ社会にみられる現象は、生態学の基本原則を表現しているものとして興味がある。地球上に約3000万種の生物(ヒトを含む)が生息していると言われているが、その80%以上は昆虫であり、既知のものだけでも150万種ほどあるという。これだけ昆虫が繁栄しているのは、昆虫社会が生態学の基本原則を忠実に守ってきたからに他ならない。元アメリカ大統領ブッシュがアメリカ的単一価値観から悪の枢軸の1つとしたイラクへの攻撃を命じたことは、彼が生態学の基本原則に無知な、無謀な行為であった事を如実に示している。
 私がアリの社会に魅せられている時に偶々ある一冊の本「働かないアリに意義がある。長谷川英祐」に惹かれ買い求めた。この本に書いてある一文を紹介する。

 「アリ社会は全員が一斉に働くことのないシステムを用意する。言い換えれば、規格外のメンバーを沢山抱え込む効率の低いシステムを採用しているが、これこそがアリの用意した進化の答えである。翻ってヒトの社会では、企業は能力の高い人を求めて効率の良さを追求し、皆勝ち組になろうと必死である。しかし、利口ばかりの集団よりは、ある程度バカな個体がいる方が組織として機能的であり持続性があるのである。良きにつけ、悪しきにつけ様々な個性が集っていないと組織はうまく回らない」。この文を読んで私は、効率性のみを追求すると、逆に非効率的になるのではないかという思いを強くした。そしてまた、現代我が国の人間社会が均一化され、強烈な個性を持った人間が非常に少なくなっているという現象は、経済優先のグローバリズムのもたらした効率性という単一の価値観を追求した結果生じたものと考える。
 効率性だけを第一義的価値として追求し、失敗を恐れる無駄のない人生ほどつまらなく、味気ないものはない。失敗に対して社会が寛容になるとき、独自の魅力ある文化が誕生する可能性もあるのではないか。
 効率的なヒトの臓器移植を推進するために、イギリスにおける商業主義に結びついた遺伝子変換ブタの開発や、未分化の細胞から分化した細胞に到った歴史を抹殺し、時計の針を巻き戻すような形で作られた人工多能性幹細胞を用いた再生医療への先陣競いなどが、我々人類の未来に本当に幸福をもたらしてくれるのであろうか。
 私は先端科学研究によってもたらされた成果が、正の効果を増大させ、負の作用を減少させるために、科学が技術の従属物にならないように、また科学を文化としてみる目の必要性を感じている。
 生命科学が商業主義と結合して進んでいくならば、人間の生命の尊厳や心の豊かさが消失していく。
 46億年前に誕生した地球、その地球上のすべての生物は36億年の生命の年齢を重ねてきた。人間は、地球上に生息する生物の中心的存在として君臨してきたが、今我々人間には、「新しい安定した人間圏とは何か」という問題についての考察が求められていることを強調したい。
 終わりに、星医会が個性的集団として個人個人の発信力を強化し、逞しく成熟していくことを切望して筆を擱く。



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窮鼠人を噛む
内村産婦人科院長 内村 道隆(1期生)

 実験用の「ラット」という白鼠がいる。溝鼠から品種改良し、通常は大人しい白鼠ですが、私にとっては、この鼠が最も苦手の一つです。それというのも、医学部三年生の時の動物実験が発端です。この実験は雌鼠に麻酔をかけ、片方の睾丸を腹腔内に移し、後日両方の睾丸を取り出し、その組織変化を見ることによって、哺乳類の睾丸が腹腔内にあることの必要性を究明する高尚な実験であった。
 私達のチームは5人で、まずラットに吸入麻酔をかけて眠らせるはずだったが、取り扱いが手荒かったせいかラットが興奮して、チームの一人ののI君が「痛い!」と大声を出した。なんと持ち上げた右手の小指にラットが噛み付きぶら下がっているではないか。床に振り落とした所をO君が押さえようとしたら、右手の平をナイフで切った様に噛み切られた。
 ラットは広い実験室を走り回り、やっとの思いで部屋の隅に追い込んだ。追い込まれたラットは、後ろ足で立ち私達に向かって「キィーキィー」と威嚇した。その度にチームの5人は後ろに仰反ってしまった。私に対しほかの4人が「お前は柔道2段の腕前だから、おまえが抑え込め!」と口々に言う。鼠を抑え込むのに柔道や格闘技は関係ないと思う。
 結局雑巾を広げて、ラットに何枚もかぶせ、私が上から押さえて実験台の上に置いた。しかし置いた時には、首の骨を圧し折っていたらしく、死んでしまっていた。恐怖のあまり手に力がはいりすぎたためであるが、後悔してもどうしようもない。私たち5人そろって、この実験主任指導者の教授に謝罪し、もう一匹ラットをもらい受けに行った。
 しかし教授の顔は怒りに満ちている。それもそのはず、実験の始めから、大声は出すは、実験室内ラットを追って走り回るは、その上大切なラットの首をへし折るは、教授が怒られないはずがない。なんとか 頼み込みラットを貰い受けた。
 今度は他のメンバーが、また首をへし折るといけないと、私がラットに触れることを許されない。少し離れたところで傍観していたら、実験は順調に行っている様で、片方の睾丸を腹腔に移そうとした所までは良かったが、よく見てみると、ラットが息をしていない。心拍も停止している。ラットが暴れる事を気にしすぎて、今回は麻酔を過剰に投与したための「ショック死」である。ストローをラットの口腔内に挿入し、指でラットの腕をマッサージして、心肺蘇生を皆で懸命ににしましたが、ラットの心臓は再び動き出すことはなかった。鼠の心肺蘇生をしたのは、後にも先にも初めてであった。
 再び教授のところに行き、又もやラットを死なせてしまったと報告すると、教授は前よりも顔を赤くし、「ラットは2度と渡さない。お前達5人は落第させてやる!」と憤慨している。
 なんとか宥め賺せて、夏休み一週間ずつ実験動物室の掃除と、多量のレポート提出でなんとか落第にならずにすんだが、その年の夏休みは私たち5人 にとって最悪であった。
 なかでもI君は噛まれた小指が化膿して、親指以上に腫れ上がり、医者に診てもらったところ、抗生剤で効果がない場合には、小指の付け根から切断しなくてはならない可能性があると言われ、本人はノイローゼ状態になってしまった。
 あれから28年経つが、テレビでラットを見ると、あの状況を思い出し、ホラー映画を観るより、ゾーッとする事がある。




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